|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 歌 : [うた] 【名詞】 1. song 2. poetry ・ 仔 : [し] (n) (animal) offspring
歌仔劇(かざいげき)は台湾の伝統芸能で、台湾オペラとも呼ばれる。20世紀初頭、台湾宜蘭で誕生した。 「歌仔」とは中文では「小歌」と訳出されるように民間歌謡を意味し、その内容は閩南語を主とし、大衆が品格のある言葉、または忠孝を主とする故事を学ぶ機会とし、台湾では古くから社会の重要な娯楽活動の一つとされていた。歌仔劇の祖形は宜蘭地区の落地掃であり、車鼓陣等の要素を組み入れて暫時発展した劇である。後代では高甲劇、北管劇、京劇等の要素を取り入れ戯曲形式が形成されていった。日本統治時代の皇民化運動及び国民政府の遷台以降に行われた国語普及運動の中でその活動空間は制限を受けるようになったが、伝統芸人が継承に努力、また台湾の本土化運動の潮流の中で再び発展の機会を獲得している。 == 歴史 == 歌仔劇の台湾の宜蘭地区で1900年前後に誕生した。7字或いは5字の組み合わせを1句とし、4句で構成される方言使用して歌われる民間歌謡であった〔台湾伝統戲曲—歌仔劇 効率台湾芸術教育館 〕。初期の歌仔劇は漳州より宜蘭に移民した漢族により「歌仔」や「車鼓」が伝播し、それらが融合して宜蘭の歌仔が誕生した。歌仔劇の創始者に関しては諸説あり、「歌仔助」欧来助、陳高犁、猫仔源などの説がある。〔王順隆,〈台湾歌仔戲的形成年代及創始者的問題〉,2002年。 〕〔『宜蘭県志』 巻2卷 1963年。〕〔『台湾省通誌』 巻6 1971年。〕。宜蘭歌仔は初期は座って歌われる形式であったものが、後に登場人物が加わり演義や所作が加り、更に各種の服装や登場人物が加わったことで大規模な劇に発展していった。〔中華文化天地,〈歌仔戯的歴史〉 〕。 歌仔劇に演劇形態が完成した後、台湾語による演出が加わり、また曲調に歌謡小調が加わったことで台湾民衆の歓迎を受けるようになった。1925年には福建省廈門地区にも伝播し、福建全域で、1927年にはマレーシア、シンガポール、フィリピンなどにも伝わり東南アジア華僑社会に広まり、現地の歌仔劇団が組織されるようになった。 太平洋戦争末期、台湾総督府は皇民化運動を推進、歌仔劇などの伝統文化を禁止、歌仔劇の役者は和服や日本刀を身に付け日本の軍歌を歌うなど、総督府の宣伝活動に利用された。 1945年、日本の敗戦により国民政府が台湾を接収すると、1947年から国語推進運動が展開され、台湾省行政長官公署宣伝委員会による上演劇目の制限が行われた。1950年代から大々的に推進された反共政策では、演劇内容の改善が要求され、「台湾歌仔劇改良会」、「台湾省地方戯劇協進会」、「台湾省改良地方戲劇委員会」が相次いで組織され、その中で多くの劇目が上演禁止となり、忠孝の礼節を重んじた作品や反共と関連する題目として女匪幹、延平復國、鑑湖女俠などの劇目が上演された。〔蔡欣欣,〈浮花浪蕊—佇望台湾歌仔戯劇目園圃的無辺春色〉『中華戲劇学会文芸界訊』第六期,2006年12月。 〕。 1971年,台湾省政府は『加強推行国語実施計画』を発表、1973年には中華民国(外來政府)教育部により『国語推行弁法』が公布され国語推進運動が強化されると、台湾語は抑圧され、1976年に公布された『広播電視法』により台湾語番組が制限され、北京語によるテレビ歌仔劇などが制作された。 1980年代以降、台湾の本土化意識の勃興により、歌仔劇の再評価が行われ、歌仔劇団が国家戯劇院を初め、空く地方都市の文化中心センターで上演されるようになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「歌仔戯」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|