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歌川 八重子(うたがわ やえこ、1903年8月22日 - 1943年9月13日)は、日本の女優。本名、深川 政江〔キネマ旬報社、262頁。〕〔歌川八重子 - デジタル版 日本人名大辞典+Plus 、コトバンク、2014年1月15日閲覧。〕〔〔マツダ映画社 『日本無声映画俳優名鑑』 アーバン・コネクションズ、2005年、172頁。〕。 妹は女優の歌路英子〔キネマ旬報社、264頁。〕〔『明治〜昭和初期 俳優名鑑集成 第10巻 日本映画俳優名鑑 昭和五年版/現代新劇俳優名鑑』 ゆまに書房、2005年、94頁。〕。映画監督の深川ひさしはいとこにあたる〔〔『キネマの美女』 文藝春秋社、1999年、129頁。〕。 == 来歴・人物 == 兵庫県神戸市兵庫町に生まれる〔〔日外アソシエーツ、81頁。〕(東京市生まれとする説もある〔『明治〜昭和初期 俳優名鑑集成 第10巻』、93頁。〕)。神戸市立女子商業学校を中退し〔(卒業とする説もある〔)1918年(大正7年)神戸の聚楽館で井上浩一座のオペラを鑑賞したのがきっかけで〔、舞台に立つ。その後井上の劇団「紅劇団」に入って満州・シベリアの巡業に参加するが、天津で劇団が解散。天津のエンパイヤ劇場で公演をしていたロシア人舞踏家姉妹のもとで舞踏を学び、1920年(大正9年)に帰国して村田栄子の一座に参加。1921年(大正10年)に日本歌劇協会の設立に参加する〔〔。 1922年(大正11年)松竹蒲田撮影所に入社し、『野の花』(監督:賀古残夢)で映画初出演。島津保次郎の作品に出演するが、1923年(大正12年)に松本泰輔の相手役として、さらに松竹の看板女優である栗島すみ子と似ていた事情もあり〔〔キネマ旬報社、263頁。〕、帝国キネマに移籍する。松本とのコンビで多数の映画に出演、古巣松竹での岩田祐吉・栗島すみ子に引けを取らないコンビと評された〔。 1925年(大正15年)、帝国キネマの内紛により松本泰輔・松本英一たちと帝国キネマを退社。アシヤ映画に参加するが、1926年(大正15年)アシヤ映画が帝国キネマと合併したのに伴い復帰する。 1931年(昭和6年)、帝国キネマが新興キネマに改組後は助演が増えていったが、「母物映画」では主演をつとめることもあった。1936年(昭和11年)からは脇役に回った。この間嵐寛寿郎プロダクションや阪東妻三郎プロダクションの映画にも出演。1941年(昭和16年)公開の『母の灯』の出演を最後に〔歌川八重子、日本映画データベース、2014年1月15日閲覧。〕、1942年(昭和17年)引退。 1943年(昭和18年)9月13日に死去した〔〔。。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「歌川八重子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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