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正受庵(しょうじゅあん)は長野県飯山市にある臨済宗の寺院。山号は小畝山(こうねさん)。臨済宗中興の祖とされる白隠慧鶴の師であった道鏡慧端の住まいとして知られている。長野県史跡(1960年〈昭和35年〉2月11日指定)。 == 概要 == 本庵の開山である慧端は、松代城主真田信之の庶子と伝えられ、寛永19年(1642年)、飯山城にて出生した。万治3年(1660年)、飯山藩主松平忠倶の参勤交代に伴って江戸に向かい、江戸麻布東北庵の至道無難のもとで出家し、一年足らずにして印可を与えられた。このとき、東北庵が改築され禅河山東北寺となったため、無難は慧端を住職に推した。しかし、慧端は固辞し、寛文6年(1666年)、飯山に帰った。大成した慧端の帰郷を喜んだ藩主忠倶は、小庵を建立して慧端に贈った。慧端はこの小庵に、無難から与えられた「正受」の扁額を掲げて庵の名とした〔飯山市誌編纂専門委員会785 。「正受」とは、「仏祖の教えを正しく継承した」との意である785 。〕。 寛文7年(1667年)には、東北寺の後継者が無難の弟子の洞天に定まったことを期に小石川至道庵に隠棲していた無難のもとに赴き、再び修行に勤しんだ。延宝4年(1676年)の無難入寂の後、慧端は再び飯山に帰った。このとき、生母も剃髪して慧端の弟子となり、李雪と称した。飯山に戻った慧端に、藩主忠倶は一山の建立と200石の寄進を申し出たが〔飯山市誌編纂専門委員会785 〕、慧端は謝絶した。水戸光圀からの2度の招請も辞退し、享保6年(1721年)に80歳で死去するまでの45年間、世俗的な栄達に目を向けることなく、臨済禅のために精進する日々を正受庵で送った〔正受庵担雪会4-5 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「正受庵」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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