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本項では正教会の歴史を扱う。 古代には、ローマ帝国の管区をもとに、キリスト教会は4世紀頃から5つの総主教区――ローマ(ロマ)、コンスタンディヌーポリ(コンスタンティノープル)、アンティオキア(アンティオケ)、アレクサンドリア、エルサレム(イエルサリム)――に分かれていた。このうちローマを除く4教会、およびグルジア正教会が、正教会のもっとも古い教会として現在まで続いている。現在もっとも信徒数が多いのはロシア正教会であり、ルーマニア正教会がこれに次ぐ。 == ローマ帝国の国教 == 4世紀、ローマ帝国はミラノ勅令でキリスト教の信仰を公認した。キリスト教はさらに国教となり、ローマの多神教にとってかわった。当時、キリスト教の中心は、ラテン語地域のローマ、ギリシア語地域のシリアのアンティオキアおよびエジプトのアレクサンドリアにあったが、新首都コンスタンディヌーポリの教会は、旧首都ローマに次ぐ第二位の序列を認められた。 キリスト教を認めたのちのローマ帝国は、国内の安定と一体性の基盤としての宗教の役割を重視し、教会一般を庇護するにとどまらず、教会の人事や教義に直接かかわることも多かった。帝国分離後の東ローマ帝国もこの政策を踏襲した。一方西ローマ帝国は早くに滅び、その後西欧世界を支配したゲルマン系諸部族は必ずしも正統派のキリスト教を信仰しなかった(アリウス派が多かった)ため、西方のラテン語教会は国家の庇護をほとんど期待することができなかった。西ローマ帝国滅亡後、西方世界にも名目上は東ローマ帝国皇帝の主権が及んでいたが、実際の統治権が及ぶことはまれであった。このため西ローマ帝国滅亡後、ローマ教会の長であるローマ教皇に西方世界の行政権が認められた。このことは、西方教会の自立と組織化を促した一方、のちの東西分裂を準備することにもなった。 古代の教会にはたびたび教義に関する論争が起き、歴代の皇帝はそのつどあるいは二派の融和を図り、会議を招集し、あるいは一方を正統とし他方を排除する命令を出した。全教会が召集されるものを全地公会(公会議)といい、その決定は全教会に適用された。一方、地方で行われた会議を地方公会ないし教会会議といい、その決定はその地方に適用された。ただし教義に関する地方公会の決定も、基本的には尊重され、他の地域に受け入れられていった。そのような重要な地方公会の決定としては、4世紀のカルタゴ教会会議における新約聖書の範囲の確定などがある。 5世紀に単性論がエジプトを中心に盛んになり、アレクサンドリアでは二派がそれぞれ独自に主教を擁立する事態に至った。単性論問題は教義論争の枠を超え、皇帝の側近をもまきこむ教会内の政争に発展し、これを収拾するため451年召集されたカルケドン公会議(ハリファゲン全地公会)は、単性論を異端として退けた。このとき単性論論者は、己を排斥した両性論者を「メルキテス」(皇帝派)と呼んだ。異端として排除され独自の教会をたてた東方の諸教会を総称して反メルキト派というのはこれに由来する。アンティオキアでも単性論教会が分立した。これらの分立した教会は非カルケドン派とも呼ばれる。ただし、現代の非カルケドン派教会は自らの教説を単性論とは看做していない。 正教会がメルキト派を自称することはほとんどなかったが、正教会は東ローマ帝国の国教として栄えていった。その象徴的建造物が6世紀コンスタンディヌーポリに建造されたアギア・ソフィア大聖堂である。現在でも世界最大級の大きさをもつこの教会には、1453年の東ローマ帝国滅亡までコンスタンディヌーポリ総主教座がおかれた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「正教会の歴史」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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