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正映マキノキネマ(しょうえいマキノキネマ、1932年2月 設立 - 同年4月 解散)は、かつて京都に存在した映画会社である。高村正次と立花良介が「マキノ再興」を目指して、かつて牧野省三が建設した「御室撮影所」に設立したが、資金難で2か月で解散した。正映マキノプロダクション(しょうえいマキノプロダクション)とも呼ばれた〔仇討兄弟鑑 、日本映画データベース、2013年5月28日閲覧。〕。略称正映マキノ(しょうえいマキノ)。 == 略歴・概要 == 1932年(昭和7年)2月、大衆文芸映画社の高村正次と、半年前まで帝国キネマの専務取締役であった立花良介〔キネマ旬報社, p.130-131.(「川浪良太」の項、執筆は岸松雄)〕が、「マキノ本家」と提携し、旧マキノ・プロダクションの「御室撮影所」に設立したのが、この「正映マキノキネマ」である。同撮影所を「正映マキノ撮影所」とし、撮影所長に牧野省三(1929年死去)の妻・知世子が就任した〔御室撮影所 、立命館大学、2008年1月31日閲覧。〕。 ところが、原因不明の出火により同撮影所は全焼、焼失する。急造のバラックスタジオで、牧野の長男・マキノ正博監督が『二番手赤穂浪士』ほかを撮影したが、配給網が確立できず、資金難となり、2か月で解散となる。『二番手赤穂浪士』の配給権を日活に売却、代金を従業員への解散手当てとした〔。また、後藤岱山監督の『仇討兄弟鑑』を大衆文芸映画社との製作提携作とし、「正映マキノキネマ」作品の青山正雄監督の『喧嘩道中記』とともに、菅原通済が当時経営していた洋画配給会社「国際映画社」が配給し、同年5月12日に公開された。製作した映画はすべてサイレント映画であった。 さらに半年後には、高村正次が映画製作を断念した東亜キネマを買収、同社の社長を辞任した南喜三郎とともに、宝塚キネマ興行を御室に設立、「御室撮影所」を「宝塚キネマ撮影所」と改称して稼動させた。「正映マキノキネマ」の残党の受け皿となった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「正映マキノキネマ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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