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正木 信茂(まさき のぶしげ、天文9年(1540年) - 永禄7年1月8日(1564年2月20日))は、戦国時代の武将。里見氏の家臣。正木時茂の嫡男。平七、大太郎と称す。 == 生涯 == 天文9年(1540年)、里見氏の家臣・正木時茂の嫡男として誕生。 永禄4年(1561年)頃、父時茂に代わって家督を継ぎ当主となる〔滝川恒昭「正木時茂に関する一考察」(『勝浦市史研究』2号、1996年)〕〔里見氏ゆかりの慈恩院(館山市)に伝わる史料「正木一家法名」によれば、時茂は永禄4年4月に没したとされる。〕。主君・里見義堯の娘・種姫を娶った。里見氏の北上政策の中心的存在として千葉氏の原胤貞や大須賀政常らと戦う。この頃から上総・下総の里見軍の命令には信茂の名義で発給されているものが多く、また叔父である正木時忠が占領した大須賀氏領の小見川(現在の千葉県香取市)の返還に関して行われていた父・時茂と千葉胤富との交渉を引き継いだのも信茂であった。また、『海上年代記』において下総国匝瑳郡長谷(現在の千葉県匝瑳市)に城を築いた「正木大膳亮」も信茂のこととみられており、若年ながら既に里見軍の中心的な人物の一人であったと考えられる。 永禄7年(1564年)の第二次国府台合戦の際に戦死した〔滝川恒昭「勝浦正木氏の基礎的考察―「正木武膳家譜」所収文書の紹介と検討を通じて―」(『勝浦市史研究』創刊号、1995年)〕〔なお、信茂が死亡したとされる戦いはその前年(永禄6年)のとする説もあり、それが事実ならば生没年が1年ずつ繰り上がる事になる。〕。享年25。 信茂の死後、妻の種姫は出家して尼となり、山奥の寺に隠棲して夫の菩提を弔う余生を送ったといわれる。なお種姫は、曲亭馬琴の読本『南総里見八犬伝』に登場する「伏姫(ふせひめ)」のモデルといわれている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「正木信茂」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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