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正木嘉美 : ミニ英和和英辞書
正木嘉美[まさき よしみ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ただし, せい, しょう]
 【名詞】 1. (logical) true 2. regular 
正木 : [まさき]
 (n) spindle tree
: [き]
 【名詞】 1. tree 2. wood 3. timber 
: [び]
  1. (n,n-suf) beauty 

正木嘉美 : ウィキペディア日本語版
正木嘉美[まさき よしみ]

正木 嘉美(まさき よしみ、男性、1962年8月20日 - )は日本柔道家、スポーツ科学研究者。天理大学体育学部体育学科教授。
== 来歴 ==
大阪府忠岡町出身。実家が牛乳販売業を営んでいたことから子供の頃は配達の手伝いをしていた。柔道は小学校5年の時に米田道場で始めた〔「ZOOM IN 素顔 正木嘉美」近代柔道 ベースボールマガジン社、1989年3月号〕。
春木中学3年の時には全国中学校柔道大会の団体戦で3位になった。関西の柔道名門校として知られる天理高校に進学すると、1年の時には高校選手権の団体戦で優勝を飾った。2年の時にはインターハイ団体戦でも優勝すると、高校選手権でも2連覇を果たした。3年の時にはインターハイ団体戦で2連覇すると、個人戦の重量級でも優勝して2冠を達成した〔。
1981年に天理大学へ進学すると、1年の時には学生優勝大会でチームの優勝に貢献して優秀選手に選ばれた(その後、今大会では3年連続して2位にとどまるが、4年連続で優秀選手に選出された。この記録は歴代でも山下泰裕斎藤制剛棟田康幸高井洋平のみが達成している)〔全日本学生柔道優勝大会(男子) 〕。2年からは無差別の全日本学生選手権で3年連続の優勝を成し遂げた。これは山下でさえ達成できなかった記録である。正力国際では個人戦決勝でソ連のグリゴリー・ベリチェフを払腰で破って優勝すると、団体戦でも優勝を飾った。3年の時には全日本選手権で3位に入ると、正力杯では優勝した。4年の時には全日本選手権で3位だったが、アジア選手権の無差別では優勝した。ロサンゼルスオリンピックは補欠に選出されたが、現地へ赴くことはなかった。一方で、正力杯では2連覇を果たすと、世界学生の無差別でも優勝を飾った。さらに2年ぶりに出場した正力国際でも個人戦無差別と団体戦の2冠を達成した〔。
1985年には天理大学の研究生となると、全日本選手権では準決勝で山下に横四方固で敗れて3年連続の3位にとどまった。神戸で開催されたユニバーシアードでは個人戦の無差別と団体戦で2冠を達成した。韓国のソウルで開催された世界選手権には補欠として出向いたものの、95kg超級決勝で国士舘大学教員の斉藤仁が地元の趙容徹に反則とも受け取れる脇固めで負傷して無差別には出場できなくなったために、急遽無差別に起用されることになった。その決勝ではエジプトのモハメド・ラシュワンを開始僅か15秒の出足払で破り世界チャンピオンに輝いた。山下、斉藤に次ぐ三番手という評価で日本代表に選出される機会がなかなか回ってこなかったものの、思いがけない形でチャンスをものにすることになった〔「第14回世界選手権特集」近代柔道 ベースボールマガジン社、1985年11月号〕。
1986年の全日本選手権では準決勝で斉藤を2-1の判定で破った新日鉄藤原敬生を合技で破り、天理大学出身者として今大会初の優勝を勝ち取った〔「昭和61年全日本柔道選手権」近代柔道 ベースボールマガジン社、1986年6月号〕。選抜体重別でも優勝を飾った。ソウルで開催されたアジア大会の無差別では決勝で地元の趙容徹を指導で破り優勝した〔。
1987年には天理大学教員となった。全日本選手権には斉藤が出場していなかったものの、準々決勝で78kg世界チャンピオンである岩手県警日蔭暢年大外落、準決勝ではこの年の世界選手権78kg級で優勝することになる筑波大学3年の岡田弘隆払腰で破るなどオール一本勝ちで決勝まで進むと、大阪府警の元谷金次郎を判定で破って2連覇を果たした。しかし、1979年に山下が達成して以来、史上2人目となるオール一本勝ちでの優勝はならなかった〔「昭和62年全日本柔道選手権」近代柔道 ベースボールマガジン社、1987年6月号〕。その後、西ドイツのエッセンで開催された世界選手権には当初2種目での出場を予定していた。しかしながら、95kg超級の初戦でベリチェフに隅返の有効で敗れた際に腰を負傷したため、無差別には出場できなくなった。そのため無差別には代役として明治大学2年の小川直也が出場して、史上最年少となる19歳7ヶ月での優勝を成し遂げた。この結果、2年前の世界選手権と全く同じ光景が繰り広げられることになった。違う点は、代役を演じる側だった正木が、今回は代役を立てられる側に回ったことだった〔「特集 男女世界選手権大会」近代柔道 ベースボールマガジン社、1988年1月号〕。
1988年の全日本選手権では決勝でケガから復帰してきた斉藤に判定で敗れて3連覇はならなかった。選抜体重別でも準決勝で小川に効果で敗れたことで、ソウルオリンピック出場を果たすことはできなかった〔。
それ以降は試合から遠ざかっていたが、1991年には全日本選手権に3年ぶりに出場した。準々決勝で綜合警備保障金野潤と対戦すると、出足払で技ありを先取しながら蟹挟で逆転負けを喫した〔「平成3年全日本柔道選手権」近代柔道 ベースボールマガジン社、1991年6月号〕。
その後引退すると、天理大学でスポーツ科学の研究に取り組むことになった。また、同大学の柔道部監督、全日本シニア代表コーチをも務めた。現在は全柔連の強化委員を務める〔正木嘉美氏 天理大学教授&全日本柔道連盟男子強化委員 〕〔強化委員会 | 全日本柔道連盟 〕。
なお、天理大学に在籍している長男の正木聖悟も2015年のジュニア体重別81kg級で2位になるなど活躍している〔「全日本ジュニア柔道体重別選手権大会」近代柔道 ベースボールマガジン社、2015年11月号〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「正木嘉美」の詳細全文を読む




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