翻訳と辞書
Words near each other
・ 正木村 (岐阜県稲葉郡)
・ 正木正
・ 正木正明
・ 正木氏
・ 正木氏 (安房国)
・ 正木流
・ 正木清
・ 正木為春
・ 正木照夫
・ 正木直太郎
正木直彦
・ 正木秀俊
・ 正木秀尚
・ 正木純子
・ 正木組
・ 正木美術館
・ 正木義太
・ 正木義断
・ 正木聖賢
・ 正木良明


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

正木直彦 : ミニ英和和英辞書
正木直彦[まさき なおひこ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ただし, せい, しょう]
 【名詞】 1. (logical) true 2. regular 
正木 : [まさき]
 (n) spindle tree
: [き]
 【名詞】 1. tree 2. wood 3. timber 
: [ひた, ちょく]
 【名詞】 1. earnestly 2. immediately 3. exactly

正木直彦 : ウィキペディア日本語版
正木直彦[まさき なおひこ]

正木 直彦(まさき なおひこ、1862年12月17日文久2年10月26日) - 1940年昭和15年)3月2日)は明治から昭和初期の美術行政家。文部官僚出身で、東京美術学校(現東京藝術大学)の第五代校長を1901年から1932年までの長期にわたって務めた。号十三松堂。
== 経歴 ==
1862年(文久2年)和泉国堺夕栄町(現・大阪府堺市)に、父林作の三男として生まれた。幼名政吉。
帝国大学法科大学法律科卒業後、奈良県尋常中学校長を経て、帝国奈良博物館学芸委員、古社寺保存委員。さらに文部省に出仕し、第一高等学校教授を兼任。
1899年明治32年)から美術などに関する調査のため欧米に出張、1901年(明治34年)に帰国。同年から東京美術学校校長となった。
1906年、黒田清輝大塚保治らとともに政府による芸術振興を建議し、これを受けて翌年文部省展覧会(文展)が開催されることになった。文展の委員長は文部次官(澤柳政太郎)で、主事に正木が就いた。その他にも博覧会や東京府美術館建設など多くの美術行政に関わった。
長期にわたり美術学校校長を務め、一時期工芸史の講義も行った。1932年、文部省の行政整理が行われるのを機会に校長を辞任した。後任を官僚が務めることには校内の反発が強く、(文部省専門学務局長赤間義信が2か月ほど校長事務取扱を務めたあと)西洋画科教授の和田英作が校長に就任した。
特に学校内部の各派の調停につとめ、体制の基盤を築いた人物として評価されている。正木が長年校長を務めた点については、作家揃いの美術学校を統制していくのは中々難しいことであり、正木以外に適任が見当たらなかったようだ、ともいわれている。1935年には美術学校敷地内に正木記念館が建てられた。
1940年没。墓所は護国寺にある。
正木千冬(ジャーナリスト、鎌倉市長)は、長男。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「正木直彦」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.