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正親町実豊 : ミニ英和和英辞書
正親町実豊[おおぎまち さねとよ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ただし, せい, しょう]
 【名詞】 1. (logical) true 2. regular 
: [まち]
 【名詞】 1. (1) town 2. (2) street 3. road 
: [み, じつ]
 【名詞】 1. fruit 2. nut 3. seed 4. content 5. good result 

正親町実豊 : ウィキペディア日本語版
正親町実豊[おおぎまち さねとよ]
正親町 実豊(おおぎまち さねとよ、元和5年12月8日1620年1月12日) - 元禄16年2月3日1703年3月19日))は、江戸時代前期の公家。おもに後光明天皇(110代)・後西天皇(111代)・霊元天皇(112代)の三代に仕えた。
正親町季俊正四位上参議)の子。母は木村勝盛従五位下越前守)の娘。元和7年(1621年)に叙任し、寛永10年(1633年)に元服のうえ、従五位上侍従に昇進した。その後、右近衛少将右近衛中将蔵人頭などを歴任し、正保元年(1644年)に参議となり、公卿に列する。その後、中納言をへて、明暦2年(1656年)に従二位権大納言となるが、万治元年(1658年)には辞した。寛文4年(1664年)から寛文10年(1670年)の間には武家伝奏役をつとめた。実豊は霊元天皇の教育係であった三条西実教から和歌有職故実の教授を受けていたことから、行動を伴にすることが多かった。だが、天皇が成長するにつれて後水尾法皇江戸幕府の信任が厚い実教や彼と結ぶ実豊を疎んじるようになり、また公家たちの間でも彼らの勢力拡大を危惧する動きが現れた。このため、寛文9年(1669年)に入ると天皇の命を受けた小倉実起久我広通らが実教や実豊の排除を求めて、後水尾法皇や京都所司代板倉重矩に働きかけを行った。この時は板倉や中院通茂の説得で天皇も一旦は退いたものの、このことがきっかけとなって、実教は蟄居を命じられ、実豊も翌年には武家伝奏を更迭された〔田中暁龍『近世前期朝幕関係の研究』(吉川弘文館2011年) ISBN 978-4-642-03448-7)P50-60・72-77〕。更に後水尾法皇崩御後に霊元天皇が親政を開始すると、実豊は親幕派と睨まれ、天和3年(1683年)より蟄居を命じられた。その後、天皇の譲位とともに赦免された。元禄16年(1703年)に薨去。享年85。家督は子の正親町公通が継いだ。娘に柳沢吉保側室正親町町子がいる。
== 脚注 ==




抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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