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武上 四郎(たけがみ しろう、1941年4月8日 - 2002年8月23日)は、宮崎県宮崎市出身のプロ野球選手(内野手)・監督、野球解説者。 == 来歴・人物 == === 現役時代 === 高校は進学校の宮崎大宮高校。1957年に夏の甲子園に出場しているが、武上の出番はなかった。卒業後は中央大学へ進学。東都大学リーグでは1963年秋季リーグで優勝、この時のエースは三浦宏(北海道拓殖銀行)であった。その後、2年下の高橋善正投手を擁し、1964年秋季リーグで2回目の優勝を飾る。リーグ通算86試合出場、330打数82安打、打率.248、0本塁打、21打点。ベストナイン3回(三塁手2回、二塁手1回)。大学同期に末次利光外野手がいる。河合楽器に進み、都市対抗野球大会に連続出場するなど活躍。1966年のプロ野球ドラフト会議(1次)でサンケイアトムズから8位指名を受けプロ球界入り。 持ち前の闘志あふれるプレーで、「ケンカ四郎」と呼ばれた。打者としてはチャンスに強く、守っては二遊間(遊撃手は東条文博)や一・二塁間(一塁手はデーヴ・ロバーツ)の難ゴロをダイビングキャッチでさばく一方、正面のゴロをしばしばトンネルした。人気があるとはいえないアトムズ・スワローズに所属したため広く認知されることはなかったが、プレースタイルには長嶋茂雄に通じるスター性があった。 入団1年目の1967年には打率.299(リーグ6位)、3本塁打、土井正三(巨人)らを凌ぐセ・リーグ1位の守備率(失策わずか9)を残し、江夏豊(阪神)を抑えて新人王を獲得。以降は二塁手として弱小時代のアトムズ・スワローズを支えた。典型的なリードオフマンであるが、1970年から1972年までは主に中軸打者として起用される。貧打のチームでは致し方がなかったが、長打を狙い打撃のバランスを崩して苦しむ時期もあった。チーム名がヤクルトスワローズとなった翌年の1975年オフに引退。 別所毅彦監督が解任される際、別所に「兼任監督をしてくれ」と要請されたが、当時まだ29歳の武上はこれを固辞している。(結局は二軍監督だった小川善治が代理監督を務め、後任は三原脩で落ち着いた)〔サンケイスポーツ 1970年8月20日 2面 など〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「武上四郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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