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武井 夕庵(たけい ゆうあん、生没年不詳)は、戦国時代の官僚、茶人。諱は助直(すけなお)。名の読みはせきあんとも。官位は肥後守、二位法印、爾云、妙云。 == 生涯 == はじめ、美濃国を治めた美濃土岐氏、美濃斎藤氏に仕え、特に斎藤道三、義龍、龍興の3代にわたり右筆として近侍する。弘治元年(1555年)に道三が義龍を廃嫡しようとした際に日根野弘就とともに義龍側につく。さらに義龍が長井道利と謀り、弟の孫四郎、喜平次を殺害し道三に反逆した時に、これに従い道三と別離する(長良川の戦い)〔『濃飛両国通史』下巻 岐阜県教育会 編刊 1924年 近代デジタルライブラリー 359-360コマ 2015年3月22日閲覧〕。 斎藤氏の滅亡後は永禄10年(1567年)より織田信長に仕え、右筆及び近侍する官僚(吏僚)になる。客の取次や京都の行政担当の一員として活動した。検視や重要時の奉行や使者も務める。そして羽柴秀吉と毛利氏への添状の発給を担当するとともに、毛利氏との友好関係のため小早川隆景、吉川元春らとの交渉にあたるなど外交面でも活躍した〔『信長の親衛隊 戦国覇者の多彩な人材』谷口克広 P.3-21・176-179 中公新書 1998年〕。 天正2年(1574年)3月27日、信長が東大寺正倉院の蘭奢待を切りとった時に9人の奉行の内となる。天正3年(1575年)、二位法印に叙任する。同年11月6・7日、信長が、多くの廷臣や寺社に領地を与える実務を数人でする。信長からの信頼は厚かったとみられ、天正7年(1579年)に安土城天守が完成したが、夕庵の邸宅は森成利、津田信澄、織田信忠に次ぐ場所に建設されている。 また、茶人としても活躍し、天正6年(1578年)元旦の安土城での許し茶湯を始める許可者の総覧の茶会では織田信忠に次いでいた(『信長公記』)〔『ここまでわかった!明智光秀の謎』収載「"文化人"としての光秀」桐野作人<研究引用元は、「織田政権における茶湯の湯」竹本千鶴>2014年 新人物文庫 KADOKAWA〕。 天正8年(1580年)3月5日、石山本願寺への勅命講和の勅使に佐久間信盛と奉行として同行し、その後の検視と勅使の取り次ぎ役もする。だが、石山本願寺は焼け、8月12日に信長が佐久間信盛への折檻状を出した時、追放への使者3人の内となる。天正9年(1581年)2月28日の京都御馬揃えに謡曲山姥の衣装で参加した時は70余歳だった。同年5月10日敵対し降伏した和泉国槇尾寺の破却の検視役5人の内となる。 天正10年(1582年)の本能寺の変後、10月28日に吉田兼見を訪問する。その後、天正13年(1585年)1月23日に訪問した山科言経を歓待したという記録が『言経卿記』で確認できるが、後の消息は不明である〔『信長の親衛隊 戦国覇者の多彩な人材』谷口克広 P.208 中公新書 1998年〕。これは、織田政権の吏僚は知行を持たずに信長に近侍する形で活動しており 夕庵もまた独自の勢力は築いていなかった。そのため信長の死で力を失いかつ高齢であったこともあり、表舞台から消えていったためとみられる〔『信長の天下所司代 筆頭吏僚 村井貞勝』谷口克広 P.223 中公新書 2009年〕。 子の十左衛門は浅野幸長に仕え、紀伊日高郡・有田郡の代官を務めたという(浅野家諸士伝)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「武井夕庵」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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