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武州傳来記 : ミニ英和和英辞書
武州傳来記[き]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [す, しゅう]
 (n) sandbank
: [らい]
 【名詞】 1. since (last month) 2. for (10 days) 3. next (year) 
: [き]
 (n,n-suf) chronicle

武州傳来記 ( リダイレクト:武州伝来記 ) : ウィキペディア日本語版
武州伝来記[ぶしゅうでんらいき]
武州伝来記』(ぶしゅうでんらいき)は、福岡藩黒田家中に伝わった二天一流兵法第5代目の立花峯均(丹治峯均)が、享保12年(1727年)に隠棲地の潜龍屈において著した開祖新免武蔵(宮本武蔵)の伝記。
ただし、武蔵の伝記を「兵法太祖武州玄信公傳来」としてまとめた後に「追記」として二祖寺尾孫之允、三祖柴任三左衛門、四祖吉田太郎右衛門の3人の先師略伝と「自記」として5代丹治峯均の自伝を合わせて一書としており、開祖武蔵より自分に至る流儀の正統を伝えた伝記ということもできる。
== 概要 ==
峯均の記すところによれば、「兵法太祖武州玄信公傳来」は若い頃に先師柴任美矩、吉田実連から夜話に聞いたものを書いたとしているが、吉田は武蔵と直接の接点がなく、主に熊本で武蔵晩年5年間と接点(本庄家系譜)があり、2代寺尾孫之允に武蔵没後7年間日夜随従したとする柴任の伝えた話がもとになっているものと考えられる。
新免武蔵(宮本武蔵)の伝記としては、熊本の弟子筋、宝暦5年(1755年豊田正剛の覚書を息子の正脩が編纂した『武公伝』や安永5年(1776年)孫の豊田景英がさらに添削を加えた『二天記』、天明2年(1782年)丹治峯均の孫弟子の丹羽信英兵法先師伝記』に先立つ最も古いものである。
明治42年(1909年)熊本の宮本武蔵遺蹟顕彰会編纂による、初めての学術的研究書『宮本武蔵』通称「顕彰会本」で『丹治峯均筆記』として初めて紹介され、以来通称『丹治峯均筆記』正式の書名は『兵法大祖武州玄信公伝来』とされてきたが、近年写本の校合により、丹治峯均の付けた正式の書名は『武州伝来記』であったことが判明した。
また、これまで『丹治峯均筆記』として紹介されてきた武蔵の逸話はほぼ「顕彰会本」からの引用に限られていて、同書に未掲載の大半の記事が紹介されずに埋もれてしまっていたことがわかった。その中には有名な「巌流島の決闘」や「吉岡一門との決闘」もあったが、『顕彰会本』は『二天記』記事のみ紹介して、内容が相反するためか、異説としてすら紹介されていない。
『武州伝来記』では、巌流島の決闘の相手は佐々木小次郎ではなく、長門国長府に住む国人津田小次郎という巖流の兵法者で、武蔵の父無二に勝負を挑んだところ無二が断り、「巖流の仕込み剣を恐れて無二辞退に及ぶ」と風評が立った。そのころ弁之助(武蔵)は摂津国(大坂)で弟子を取って兵法を教えていたが、これを聞いてただちに長門へ下り、小次郎と下関で勝負をしようとしたが許されず、巌流島の決闘にいたったと書かれている。『二天記』に伝える熊本藩公認試合ではなく私闘であり、武蔵のほうが先着して小次郎を待つなど、10を越える通説との相違が見られる逸話となっている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「武州伝来記」の詳細全文を読む




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