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武市瑞山 : ミニ英和和英辞書
武市瑞山[たけち ずいざん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [し]
  1. (n-suf) city 
: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 

武市瑞山 : ウィキペディア日本語版
武市瑞山[たけち ずいざん]

武市 瑞山(たけち ずいざん)は、日本志士武士土佐藩郷士)。土佐勤王党の盟主。通称は半平太で、武市 半平太(たけち はんぺいた)と呼称されることも多い。幼名は鹿衛。は小楯(こたて)。は瑞山または茗澗。変名は柳川左門。後に柳川左門と変名した際は雅号を吹山とした。
土佐藩郷士・武市正恒(白札格、51石)の長男。母は大井氏の娘。妻は土佐藩郷士・島村源次郎の長女・富子。子女はなし。坂本龍馬とは遠縁にあたる。
優れた剣術家であったが、黒船来航以降の時勢の動揺を受けて攘夷と挙藩勤王を掲げる土佐勤王党を結成。参政・吉田東洋を暗殺して藩論を尊王攘夷に転換させることに成功した。京都江戸での国事周旋によって一時は藩論を主導し、京洛における尊皇攘夷運動の中心的役割を担ったが、八月十八日の政変により政局が一変すると前藩主・山内容堂によって投獄される。1年8か月20日の獄中闘争を経て切腹を命じられ、土佐勤王党は壊滅した。
== 生涯 ==

=== 剣術家 ===
文政12年(1829年)9月27日土佐国吹井村(現在の高知県高知市仁井田)に生まれる。武市家は元々土地の豪農であったが、半平太より5代前の半右衛門が享保11年(1726年)に郷士に取り立てられ、文政5年(1822年)には白札格に昇格。白札郷士とは上士として認められたことを意味する。
天保12年(1841年)、一刀流・千頭伝四郎に入門して剣術を学ぶ〔松岡司『武市半平太伝』p21〕。
嘉永2年(1849年)、父母を相次いで亡くし、残された老祖母の扶養のために、半平太は同年12月に郷士・島村源次郎の長女・富子を妻としている〔入交好脩『武市半平太』p25〕。翌嘉永3年(1850年)3月に高知城下に転居し、小野派一刀流(中西派)麻田直養(なおもと)の門で剣術を学び、間もなく初伝を授かり、嘉永5年(1852年)に中伝を受ける。
嘉永6年(1853年)、ペリーが浦賀に来航して世情が騒然とする中、半平太は藩より西国筋形勢視察の任を受けるが、待遇に不満があったのかこれを辞退している〔『維新土佐勤王史』p36〕。翌嘉永7年(1854年)に新町に道場を開き〔入交好脩『武市半平太』p26〕、同年(安政元年)に麻田より皆伝を伝授される。
安政元年に土佐を襲った地震のために家屋を失ったが、翌・安政2年(1855年)に新築した自宅に妻の叔父にあたる槍術家・島村寿之助との協同経営の道場を開き、声望が高まっていた半平太の道場には120人の門弟が集まった〔入交好脩『武市半平太』p26-27〕。
この道場の門下には中岡慎太郎岡田以蔵等もおり、後に結成される土佐勤王党の母体となる。同年秋に剣術の技量を見込まれて、藩庁の命により安芸郡香美郡での出張教授を行う〔入交好脩『武市半平太』p27〕。
安政3年(1856年)8月、藩の臨時御用として江戸での剣術修行が許され、岡田以蔵や五十嵐文吉らを伴って江戸へ出て鏡心明智流士学館桃井春蔵の道場)に入門。半平太の人物を見込んだ桃井は皆伝を授け、塾頭とした。塾頭となった半平太は乱れていた道場の風儀を正し、その気風を粛然となさしめた。同時期に坂本龍馬も江戸の桶町千葉道場北辰一刀流)で剣術修行を行っている。安政4年(1857年)8月、半平太と龍馬の親戚の山本琢磨が商人の時計を拾得売却する事件が起きた。事が藩に露見したため切腹沙汰になったが、半平太と龍馬が相談の上で山本を逃がしている〔安政4年8月17日付武市半平太書簡。『坂本龍馬歴史大事典』p343〕〔入交好脩『武市半平太』p28-29〕。
これから程ない9月に老祖母の病状が悪化したので土佐に帰国した。安政5年(1858年)に一生二人扶持の加増を受け、剣術諸事世話方を命じられる〔松岡司『武市半平太伝』p27〕。
安政6年(1859年)2月、一橋慶喜の将軍継嗣擁立を運動していた土佐藩主・山内豊信大老井伊直弼によって隠居させられ、同年10月には謹慎を命じられる。土佐藩士達はこの幕府の処置に憤慨したが、翌安政7年(1860年3月3日に井伊が暗殺され(桜田門外の変)、土佐藩士達は変を赤穂義士になぞらえて喝采し、尊王攘夷の機運が高まった〔『維新土佐勤王史』p61-62〕〔飛鳥井雅道『坂本龍馬』p122-123〕。
同月、祖母が死去し、その喪が明けた7月に半平太は岡田以蔵や久松喜代馬島村外内を伴い武者修行の西国遊歴に出る。龍馬は「今日の時世に武者修行でもあるまい」と笑ったが〔『維新土佐勤王史』p63〕、その真意は西国諸藩の動静視察であった。一行は長州を経て九州に入って諸藩を巡り、途中、以蔵は家が貧しく国へ帰れば再び出ることは難しかろうと豊後国岡藩の堀道場に託して年末に帰国した〔『維新土佐勤王史』p63-66〕。この旅行で半平太は攘夷派志士の思想に大きな影響を与えた国学者・平田篤胤の『霊能真柱』を持ち帰っている〔半平太会『維新土佐勤王史』p64〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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