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武成帝[ぶせいてい]
武成帝(ぶせいてい)は、北朝北斉の第4代皇帝。 == 生涯 == 東魏の実力者高歓の九男に生まれる。母は正妻の婁昭君。北魏孝武帝の皇后高氏、高澄、東魏孝静帝の皇后高氏(太原長公主)、高洋(文宣帝)、高演(孝昭帝)の同母弟にあたる。少年期から気高く優雅な美少年と称えられた。元象元年(538年)、長広郡公に封ぜられた。 天保元年(550年)に兄の文宣帝が北斉を建てると長広王に進んだ。尚書令となり、まもなく司徒を兼ねた。天保10年(559年)、文宣帝が死去して高殷が即位すると、太尉に転じた。乾明元年(560年)、楊愔らに忌まれて大司馬・并州刺史とされた。その後、孝昭帝高演の政権奪取に協力し、太傅・録尚書事となった。皇建2年(561年)11月、孝昭帝の死の床で帝位を譲られて晋陽の南宮で即位した。しかし、帝位に就いた後は贅沢の限りを尽くし、民をひたすらに賦役に駆り立てたりと、暴君的な所業しかしなかった。河清4年(565年)4月、長男の高緯に帝位を譲り、太上皇帝として政務を見た。天統4年(568年)12月、鄴宮の乾寿堂で死去した。享年32。 高長恭や斛律光といった名将らが健在だったため国は守られていたが、和士開などの奸臣を用いてその専横を許した。このことが北斉の滅亡の遠因となったといわれる。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「武成帝」の詳細全文を読む
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