|
武智丸(たけちまる)は、第二次世界大戦(太平洋戦争)中の日本で戦時標準船E型に準じてコンクリート船として竣工した大日本帝国海軍所属の貨物船で、EC型戦時標準船とも呼ばれる。同型船4隻が作られたが、うち2隻の船体が広島県呉市安浦町の安浦漁港の防波堤として現存している。 ここでは武智丸に先立って建造されたコンクリート製被曳航油槽船についても記述する。 ==概要== 木材や金属ではなくセメントで作られるいわゆるコンクリート船は19世紀中頃に誕生していた。第一次世界大戦中に技術が発展し、1920年前後には大西洋横断可能な航洋性がある大型船が出現した。しかし、コンクリート船は通常の船舶とは異なり、耐水性・水密性に優れる反面、大量の型枠用木材が必要になるなど、費用が鋼船の二倍かかる上に、コンクリートの性質上冬季でも温暖な地域でしか作れない欠点があった。そのためコンクリート船は鋼材船の代用品でしかなかった。 戦時体制下であった日本では輸送手段の貨物船も、造船用鋼材も極度に不足していた。舞鶴海軍工廠技術中佐であった林邦雄は800トン級貨物船をコンクリートで作る承認を艦政本部から得た。この計画に大阪府土木会社の武智昭次郎が事業に名乗りを挙げ、兵庫県印南郡曽根町(現在の高砂市)の塩田跡に新設された武智造船所でコンクリート船体が建造され、艤装は岡山県玉野市の三井造船玉野で行われた。このコンクリート船はEC型戦時標準船と呼ばれ、800総トン、航海速力7ノットの貨物船として建造された。外観は1番船倉と2番船倉の間にマストが立てられていたこと以外は2E型戦時標準船そのままの船型だった。 武智丸はいずれも海軍輸送船として引き渡され、第一武智丸が1944年(昭和19年)6月竣工、ついで第二、第三も竣工。主に石炭や製鋼原料、雑貨輸送に利用され、瀬戸内海を中心に一部は南方へも航海した。 第三武智丸は1945年(昭和20年)7月10日に瀬戸内海の小豆島沖で触雷沈没。 第四武智丸は艤装中に終戦を迎え、終戦後完成したが9月17日に神戸沖で台風により座礁し、のち廃船。 終戦後も残存したのは、第一・第二の二隻のみであった。 また、EC型戦時標準船に先立ち、エンジン等の自走機関を持たないコンクリート製被曳航油槽船が1943年(昭和18年)に5隻建造された。こちらは円筒状の船体に船首がつき、船尾を切妻にした船型で、満載状態では船体は海面下に潜り、船首部分だけが海上に出るようになっていた。コンクリート製被曳航油槽船は全てが呉鎮守府に引き渡されたものの、曳航時の速力低下を懸念され、余り有効に使用されないまま各地で浮きタンク代用として使用された。 コンクリート製被曳航油槽船のその後は不明だが、少なくとも1隻が終戦を迎えたとされる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「武智丸」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|