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武満 徹(たけみつ とおる、1930年10月8日 - 1996年2月20日)は日本の作曲家。 == 人物 == === デビューまで === 1930年10月8日に東京本郷区駒込曙町(現 文京区本駒込一丁目)で生まれる。父は鹿児島県川内市(現・薩摩川内市)隈之城町出身で帝国海上保険勤務、祖父の武満義雄は政友会の鹿児島県幹事長を務め、原敬内閣のとき衆議院議員を連続7期17年間務めた〔草柳大蔵『新々実力者の条件』p.214(文藝春秋社、1972年)〕。 生後1ヶ月で、父の勤務先である満洲の大連に渡る。1937年、小学校入学のために単身帰国し、東京市本郷区の富士前尋常小学校に入学〔武満浅香『作曲家・武満徹との日々を語る』(小学館、2006年)の中に、編集部が武満の小学生時代の同級生から得た証言として、武満が小学生のときに音楽教師から目をかけられ、放課後にピアノを習っていたというエピソードなどが掲載されている (p244-246)。この経験が後に独学で作曲やピアノに取り組む下地になっていたことが推察される。〕、7年間にわたって叔父の家に寄留する。叔母は生田流箏曲の師匠であり、初期の習作的な作品『二つの小品』(1949年、未完)には箏の奏法の影響が見られる〔楢崎洋子『武満徹』音楽之友社、2005年、12頁〕〔ただし、後年の武満は箏をあまり好まなかった(楢崎、2005年、12頁)。〕。この頃に従兄弟からレコードで聴かされたベートーヴェンやメンデルスゾーンなどのクラシック音楽には興味を示さなかったが〔楢崎、2005年、18頁〕、その一方で1948年に行われた「新作曲派協会」第2回作品発表会に足を運び、後に作曲を師事する清瀬保二の『ヴァイオリンソナタ第1番』のような、当時としては新しい音楽に感動していたとされる〔楢崎、2005年、8頁、21頁〕。 1943年、旧制の私立京華中学校に入学。額から頭にかけての格好が飛行船に似ていたため、当時の渾名は「ツェッペリン」であった〔草柳大蔵『新々実力者の条件』p.211(文藝春秋社、1972年)〕。軍事教練では教官の手塚金之助少尉からしごきを受け、野外演習で入浴中に「あの金坊の野郎、ただじゃおかねえからな」と叫んだところ、真ん前に手塚がいたため「この野郎」と殴られたこともある〔。在学中の1945年に埼玉県の陸軍食糧基地に勤労動員される。軍の宿舎において、同室の下士官が隠れて聞いていた〔フランスは当時の日本の敵国であったため。〕リュシエンヌ・ボワイエが歌うシャンソン『聴かせてよ、愛のことばを』( ''Parlez-moi d'amour'' )〔何らかの原因でジョセフィン・ベーカーだと思いこみ、長らくそう記していた。立花隆に指摘されて以来一時期は訂正していたものの、「客観的事実より、自分の記憶の中の事実を大切にしたい」として、ベーカーに戻している(立花隆「音楽創造への旅」『武満徹全集第2巻』小学館、2003年)。〕を耳にして衝撃を受ける。現代音楽の研究者である楢崎洋子は、後年の『鳥は星型の庭に降りる』、『遠い呼び声の彼方へ!』など、いくつかの作品モチーフに、このシャンソンの旋律線との類似点があることを指摘している〔楢崎、2005年、19頁〕。戦争中は予科練を受験〔。戦争末期には「日本は敗けるそうだ」と語った級友を殴り飛ばした軍国少年であった〔草柳大蔵『新々実力者の条件』p.212(文藝春秋社、1972年)〕。 終戦後に進駐軍のラジオ放送を通して、フランクやドビュッシーなど、近代フランスの作曲家の作品に親しむ一方で、横浜のアメリカ軍キャンプで働きジャズに接した。やがて音楽家になる決意を固め、清瀬保二に作曲を師事するが、ほとんど独学であった。京華高等学校卒業後、1949年に東京音楽学校(この年の5月から東京芸術大学)作曲科を受験。科目演奏には最も簡単なショパンのプレリュードを選び、妹の下駄を突っかけて試験会場に出向いたが、控室で網走から来た熊田という天才少年(後に自殺)と意気投合し、「作曲をするのに学校だの教育だの無関係だろう」との結論に達し〔草柳大蔵『新々実力者の条件』p.210(文藝春秋社、1972年)〕、2日目の試験を欠席し、上野の松坂シネマで『二重生活』を観て過ごした〔楢崎洋子『武満徹』音楽之友社、2005年、ISBN-4276221943、21頁。ただし、武満はこの時期に多くの病気を抱えており、入学試験の許可が芸大から出たかどうかは異説もある。〕。この時期の作品としては清瀬保二に献呈された『ロマンス』(1949年、作曲者死後の1998年に初演)のほか、遺品から発見された『二つのメロディ』(1948年、第1曲のみ完成)などのピアノ曲が存在する〔楢崎、2005年、8-13頁〕。 デビュー以前はピアノを買う金がなく、本郷から日暮里にかけて街を歩いていてピアノの音が聞こえると、そこへ出向いてピアノを弾かせてもらっていたという〔草柳大蔵『新々実力者の条件』p.224(文藝春秋社、1972年)〕。武満は「1軒もことわられなかったから、よほど運がよかったのだ」と言っているが、ときどき同行した友人の福島和夫によると、最初は確かに貸してくれたが、何度も続くと必ず「もう来ないで下さい」と断られたという〔。のち、芥川也寸志を介してそれを知った黛敏郎は武満と面識はなかったにもかかわらず妻のピアノをプレゼントした〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「武満徹」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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