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武田 信実(たけだ のぶざね)は、戦国時代の武将。国人領主としての安芸武田氏最後の当主。若狭守護武田元光の子。 == 生涯 == 天文9年(1540年)6月に安芸武田氏当主武田光和が急死〔没年を天文3年(1534年)とする説もある。〕すると、安芸分郡守護である若狭武田氏から迎えられ、その養子として安芸武田氏の当主となる。羽賀寺(福井県小浜市)に残る『羽賀寺年中行事』によると、光和の死後に出雲の使者が若狭に来て信実の安芸武田氏の継承を要請した旨が記されており、安芸武田氏には少なからず尼子氏の影響があったと考えられている。 光和の跡を継いで第9代安芸武田氏当主となったものの、重臣間では周防の大名大内氏との講和についての意見対立が起きており、ついには品川一党が香川氏の居城八木城を攻撃する内紛が生じた。しかし、安芸平賀氏・熊谷氏らが香川氏に援軍を出すとの報に接した品川一党は退却。大混乱をきたした武田氏家臣は佐東銀山城を捨てて逃亡。事態の急変に対して何の手を打つことができなかった信実も、佐東銀山城を捨て、出雲に逃亡した。 同年9月、尼子詮久が毛利元就討伐のため安芸に出陣。晴久に安芸武田氏復興の援助を求めた信実は、兵2,000を率いる牛尾幸清と共に、佐東銀山城に帰城する。しかし、尼子詮久の郡山城攻略は遅々として進まず、11月には、信実も毛利軍の国司元相勢と戦うが敗北している。翌年(1541年)、陶隆房率いる大内氏の援軍と毛利方の反撃により、詮久は無残な退却を強いられることとなる(吉田郡山城の戦い)。 尼子氏の敗北により、再び佐東銀山城が孤立すると、信実はまたもや城を捨てて牛尾幸清と共に出雲へ逃亡し、安芸国に戻ることはなく、城兵の多くも逃亡した。信実は弘治元年10月6日(1555年10月21日)に出雲で逝去した。 その一方、佐東銀山城には安芸武田氏の一族の武田信重〔信実の同世代の親族といわれる安芸武田氏の一族。信実の逃亡後に、安芸武田氏の家督を継いで第10代の当主になったと数える説もある。〕が300余の兵と共に籠城していたが、元就の攻撃によりついに落城(佐東銀山城の戦い)。これにより、安芸武田氏は終焉を迎えることとなる。 なお、光和の庶子であったために生き残った武田小三郎(後の武田宗慶)は毛利氏に従っている。佐東銀山城に戻ることはなかったが、毛利氏の周防移封に伴って、周防武田氏と名乗るようになった。また、後代には、安芸武田氏の血を受け継ぐ(武田信重の子、もしくは武田元繁の女婿伴繁清の息子とも)安国寺恵瓊が毛利氏の外交僧として活躍している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「武田信実」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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