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武田 元信(たけだ もとのぶ)は、戦国時代の守護大名。若狭国・丹後国守護、安芸国分郡守護。若狭武田氏の第5代当主。武田国信の次男。官位は治部少輔、大膳大夫、伊豆守、従三位。 == 生涯 == 寛正2年(1461年)、武田国信の次男として誕生。 若狭武田氏は代々管領細川氏との関係が深かったといわれ、元信が文明3年(1471年)に元服して細川勝元に付けられた名前は勝元の「元」(管領細川家の通字)と武田家の通字の「信」から成る。尚、「元」の字は子の元光、曾孫の義統(義元)も使用している。 兄の武田信親が早世したため、後継者とされた。家督を継承してまもなく足利将軍家の将軍位を巡る争いである明応の政変に際しては上洛して政変を起こした細川政元(勝元の子)を支援した〔武田元信は明応2年閏4月3日に上洛をしているが、その2日前に細川京兆家と対立関係にあった大内政弘の娘が京都で誘拐される事件が発生している。ところが、早くから武田元信が先に政弘の娘との婚約を破棄された事への報復と噂されていた(『大乗院寺社雑事記』)。一方で、直後に細川政元が堺に滞在していた大内義興(政弘の子で先に誘拐された娘の実兄)を自陣営に勧誘しており、大内氏が政変に反対しないように政元と元信が人質を確保するために誘拐事件を起こしたとする見方もある(藤井崇『大内義興』戎光祥出版、2014年、P40-41)。〕。それ以降も軍事活動などを通じて室町幕府将軍や細川京兆家とのつながりを更に深め、若狭武田家を繁栄させた()。しかし、丹後一色氏との対立は一進一退の状況が続き、一色氏の若狭侵攻の際には越前国の朝倉氏の援軍もあり、これを撃退している()。また、領内で起きた土一揆などにも苦しめられるなど()、その体制は必ずしも順風満帆ではなかったものの、若狭武田氏を守護大名から戦国大名へと転身()させる基礎を築いた。 永正16年(1519年)に形式上、家督を子の元光に譲り出家。大永元年(1521年)10月4日、禁裏御所の修理費5000疋を朝廷に献上し、功労により同月22日に守護としては異例の従三位に昇叙した。 同年12月3日に死去、享年61。法名は、仏国寺殿青光禄大丈夫三品大雄紹公大禅定門。墓所は、福井県小浜市の仏国寺。 なお、和歌や故実などの公家文化に通じ、戦乱により衰退していた芸能文化面の再興に大きく貢献した()。家臣の粟屋氏ともども、京都の貴紳三条西実隆との親密な交流が知られる。国の重要文化財に指定された『実隆公記』には、元信が藤原定家自筆の『伊勢物語』を所持していたことが記されている。また元信自身も、定家の『伊勢物語』や家集を書写したと伝わる。遺墨は少なく貴重である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「武田元信」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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