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武田八幡宮 : ミニ英和和英辞書
武田八幡宮[たけだはちまんぐう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [やつ]
 (num) eight
八幡 : [はちまん]
  1. (adv,n) God of War 2. Hachiman 
八幡宮 : [はちまんぐう]
 (n) Shrine of the God of War

武田八幡宮 : ウィキペディア日本語版
武田八幡宮[たけだはちまんぐう]

武田八幡宮(たけだはちまんぐう)は山梨県韮崎市にある神社。同市神山町北宮地集落の西部にあり、旧社格は県社。本殿は国の重要文化財に指定されている。
==歴史==
社伝によれば、822年弘仁13年)に宇佐神宮または石清水八幡宮の分霊を勅命によって勧請し、地名から武田八幡宮と称したのが草創とされる。一方で『甲斐国志』は当宮の別当寺である法善寺南アルプス市)の記録に基づき、同じく822年に空海の夢の中で八幡大菩薩が武田郷に出現したため神祠を構えたのを起源としている。なお、同書では日本武尊の子である武田王が御殿を設けた事が武田の地名の由来であり、武田王が館の北東のを館内に移して祀ったのが武田武大神の起源としている。
甲斐国には石和八幡宮笛吹市)や窪八幡神社山梨市)など武田氏により勧請された八幡社が分布しているが、『甲斐国社記・寺記』によれば、清和天皇の頃に奉幣と社領の寄進が行なわれた後、武田信義が武田八幡宮を氏神とし、社頭の再建などを行なったという。
歴代の甲斐国司も造営を行なったとされるが、戦国期に武田晴信(後の信玄)が天文10年12月23日1542年1月19日)に大檀主として嫡子である武田義信とともに再建したとある〔『社蔵棟札』〕のが、確認されている中で古い造営記録である。この造営は国主となった晴信の最初の事業でもあった。
永禄3年(1560年)に信玄が国中の諸社に対して甲府府中八幡宮への参勤を命じた際、武田八幡宮は甲斐国一宮浅間神社など10社とともに参勤を免除されている〔永禄3年8月25日1560年9月25日)の『武田信玄社中条目写』〕。天正10年2月19日1582年3月23日)には、織田信長甲州征伐に際して、武田勝頼の妻・北条夫人が勝頼の武運を祈って祈願文を捧げた〔『戦国遺文』武田氏編 - 3659号〕。この祈願文は掛軸に仕立てられ、県指定の有形文化財となっている。
武田氏の滅亡後、甲斐の領主となった徳川家康は、天正11年4月18日1583年6月8日)に社領を安堵している〔『徳川家康印判状写』〕。また、社記によると天正年間に、平岩親吉に命じて当社の造営を行なったとされる。慶長9年3月23日1604年4月22日)には境内での樹木伐採や放放、諸役の賦課などが禁止されている〔『徳川家奉行連署証文写』〕。1622年(寛文2年)に甲府徳川家家老巡見として由緒を調査し、修復料が支払われた。また、柳沢吉保甲府藩主の時代に修復を行なっている。安永年間には社殿が大破して修理を行い、1853年嘉永6年)にも修復されている。将軍や国主の代替りの際には巡見役や役人が参詣し、国内が不穏な場合には国主からの神事執行が依頼されたという。柳沢家からは旱魃の際に雨ごいの祈祷が依頼され、初穂料として金・300が支払われている。社記によれば正月や祭礼の時には神主甲府城の楽屋曲輪まで祈祷札を届け、甲府勤番追手門まで出迎えたという。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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