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仁科 盛信(にしな もりのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。甲斐国の戦国大名・武田信玄の五男〔。母は油川信守の娘で側室の油川夫人。 異母兄に武田義信・武田勝頼、同母の弟妹に葛山信貞・松姫(織田信忠婚約者)・菊姫(上杉景勝正室)がいる。信濃国安曇郡の国人領主である仁科氏を継承し、武田親族衆に列する。 勝頼末期に織田信長の甲州征伐に際して一族・重臣の逃亡や寝返りが続く中、高遠城において最後まで抵抗し、討死した。 諱は盛信のほか、近世の系図類・編纂物では「晴近」とする資料もあるが、信玄が将軍足利義晴から授与された「晴」の偏諱を授与することは社会通念上ありえないことから、疑問視されている〔丸島和洋「武田勝頼と一門」『武田勝頼のすべて』新人物往来社、2007年〕。また、天正9年(1581年)5月7日付霊松寺宛禁制や『甲乱記』では「信盛」とする用例があり、天正9年2月から同年5月の間に、高遠入城を契機に改名した可能性が考えられている〔丸島 2007年〕。 == 生涯 == === 信玄時代 === 武田氏は父・晴信期の天文年間から信濃侵攻を本格化し、信濃国人の被官化が進められていた。安曇郡を領する仁科氏は天文22年(1553年)に武田方に帰属し、安曇郡は仁科盛政支配期を経て直轄領化されている。晴信期の信濃支配では、征服した信濃名族と婚姻関係を結び親族衆に列することで懐柔させることが行われていたが、盛信も永禄4年(1561年)に父の意向で仁科氏の名跡を継ぎ、仁科氏の通字である「盛」の偏諱を受け継ぎ、親族100騎持の大将となっている。天正年間には仁科氏当主として諸役免許や知行安堵を行っており、武田領国と敵対する越後国との国境警備を指揮している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「仁科盛信」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Nishina Morinobu 」があります。 スポンサード リンク
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