翻訳と辞書
Words near each other
・ 武田食品工業
・ 武田馨
・ 武田高信
・ 武田高校
・ 武田高等学校
・ 武田麗子
・ 武田麟太郎
・ 武田龍夫
・ 武田龍宝
・ 武田龍精
武甲一輝
・ 武甲山
・ 武町
・ 武略
・ 武當派
・ 武発史郎
・ 武白
・ 武皇后
・ 武皇帝
・ 武盛県


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

武甲一輝 : ミニ英和和英辞書
武甲一輝[あきら]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [いち]
  1. (num) one 

武甲一輝 ( リダイレクト:剣武輝希 ) : ウィキペディア日本語版
剣武輝希[つるぎだけ てるき]

剣武 輝希(つるぎだけ てるき、1979年2月7日 - )は、埼玉県秩父郡小鹿野町出身で藤島部屋(入門時は武蔵川部屋)所属の元大相撲力士。本名は宮本一輝(みやもと かずてる)。身長181cm、体重168kg。最高位は西前頭16枚目(2011年11月場所)。得意技は突き・押し、血液型はB型。
==来歴==
小鹿野町で温泉旅館「宮本家」を経営する一家の長男として生まれる。埼玉県立秩父農工高等学校から教員志向の強い日本体育大学を経て角界入り。日体大を卒業しての角界入りは史上初めてだった。大学時代の同期には同部屋となる垣添(現・雷)がいる。同じ場所で初土俵を踏んだ力士に後の横綱白鵬幕内猛虎浪がいる(ちなみに両者とも対戦経験は無い)。幕下付出の資格を得ることは出来なかったが、宮本の四股名で初めて番付に載った2001年5月場所で序ノ口優勝を果たし、以降も順調に番付を上げて翌2002年1月場所では5場所目にして早くも幕下昇進を果たし、四股名も地元の武甲山(ぶこうさん)にちなんだ武甲山(ぶこうざん)と改める。
しかし、その後は度重なる怪我に悩まされて番付は停滞する。特に網膜剥離に悩まされ、左目を3回、右目も1回手術した。一時は引退も考えたほどだったが、網膜剥離で入院中の2003年9月場所で大学の同期で同部屋の垣添が新入幕で初白星を挙げて行われたインタビューで「入院している宮本の為にも今日は勝ちたかった」と話したのを見て発奮。2005年1月場所に3度目の幕下昇進を果たしてからは幕下の地位を維持し続け、じわじわと番付を上げていく。しかし上位の壁は厚く、幕下1ケタ台に番付を上げては跳ね返されることが続いた。
四股名を宮本→武甲山→宮本→武甲(たけかぶと)と改め、2010年1月場所からは剣武に改名、同時に下の名前も「一輝」から「輝希」に改めた。その場所で6勝1敗の好成績を収めると、以後幕下5枚目以内をキープ。7月場所では東3枚目で4勝3敗と勝ち越すも、翌9月場所は西筆頭に留め置かれて3勝4敗と負け越してしまう。しかし、西3枚目で迎えた翌9月場所の千秋楽に勝ち越しを決め、場所後に十両昇進を決めた。十両昇進への所要58場所は、学生相撲出身力士としては花ノ藤日本大学)の40場所を大きく上回るスロー出世。また、十両昇進発表後に入門当時の師匠であった武蔵川藤島に部屋を継承したため、武蔵川部屋最後の場所で関取昇進を決めたこととなった。
新十両の2010年11月場所では西十両13枚目で7勝8敗、2011年1月場所では東十両14枚目で7勝8敗と負け越すが残留、同年5月技量審査場所では6勝9敗と負け越すものの大相撲八百長問題の影響で同年7月場所は自己最高位の番付を更新、10勝5敗と大きく勝ち越した。また、十両での勝ち越しはこの場所が初めてである。負け越しつつも十両に残留することが多く、番付運には恵まれている。同年9月場所では西十両2枚目で勝ち越し、10月31日に翌場所での新入幕(西前頭16枚目)が発表された。学生相撲出身では初土俵(幕下60枚目格付出)から所要59場所で入幕を果たした同部屋の武州山を抜き、初土俵から所要63場所という最スロー出世である〔剣武が学生出身の最スロー出世 、2011年9月25日、日刊スポーツ(電子版)〕。また、この場所の同時昇進には妙義龍松鳳山佐田の富士碧山がおり、新入幕力士5人は1950年秋場所以来およそ61年ぶり、学生相撲出身が同時に3人入幕は史上初の出来事であった。ちなみにこのうちの妙義龍も「日体大の宮本」(妙義龍は剣武の8学年下)である。この場所4勝11敗と負け越し1場所で十両に陥落したが、それでもその場所の平幕力士で3位となる9本の懸賞を受けるなど意地を示した。〔『相撲』2012年1月号75頁〕2012年1月場所の終わりに再び網膜剥離の手術を受けている。〔『相撲』2012年3月号77頁で「左目の白内障が悪化して、初場所中はほとんど見えなかったんです。」と報告している。〕同年3月場所は手術の影響で調子が上がらず初日から6連敗し7日目に休場した〔 〕。結局この場所が現役最後の場所となり、翌5月場所の番付が発表された直後の同年4月25日に、垣添と共に引退が発表された〔垣添と剣武が引退 2012年4月25日、日刊スポーツ(電子版)〕。学生相撲出身者の身でありながら10年以上所要して新入幕を果たし、それからわずか半年後に幕下に陥落して引退という極めて珍しい土俵歴を歩んだ力士であった。
引退後は実家へ帰り、先述した温泉旅館にて修行を行っており、将来的に家業を引き継ぐ予定である。修行開始後の同年8月26日、両国国技館にて断髪式を行い、当時押尾川を襲名していた垣添も鋏を入れた。〔元幕内剣武が断髪式 約180人が、はさみ入れる 2012年8月26日、MSN産経ニュース〕2015年2月24日放送分のTV東京『昼めし旅』では実家の温泉旅館で修業している様子が放映された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「剣武輝希」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.