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武茂氏(むもし)は、宇都宮氏の一族で下野国武茂郡より起こる。 下野宇都宮氏第7代の宇都宮景綱(下野守)の子で、第8代宇都宮貞綱(下野守)の弟の宇都宮泰宗(三河守、常陸介)にはじまる。 泰宗は、兄の貞綱が元寇の際、執権北条時宗の命を受け、蒙古討伐軍総大将として九州に下った時、同行し、筑後国山門郡瀬高の大木城を拠点としたため、泰宗の嫡子の武茂時綱が武茂荘を嗣いだ。その後は武茂氏泰が継承したが、時綱の庶子の武茂泰藤は三河国の大久保氏の祖となったと伝えられるが徳川氏が新田氏の子孫というのと同じ類の仮冒とされる。 武茂氏は南北朝期は宇都宮宗家と対立したがやがて和解し、時綱の曾孫の宇都宮持綱は、下野の宇都宮氏本家第12代当主宇都宮満綱の婿養子となって家督を継承し、第13代当主となった。しかし、持綱が不慮の死を遂げ、その子である第14代当主宇都宮等綱が追放されると、持綱の実父である武茂綱家が宇都宮城を預かったとされている。だが、武茂綱家以降の武茂氏の当主は宇都宮持綱・等綱親子が宇都宮氏の当主とともに兼ねていたと考えられ、追放された等綱が亡命先の白河結城氏に対して武茂荘の譲渡と引換に援助を求めた文書が存在する〔江田郁夫『戦国大名宇都宮氏と家中』岩田書院、2014年、P38-40〕。 勿論、宇都宮明綱(等綱の長男、宇都宮氏第15代当主)を擁立していた芳賀成高ら重臣はこのような等綱の動きを認めることはなく、代わりに等綱の次男とも、宇都宮持綱の娘と芳賀成高の子(すなわち宇都宮持綱の外孫にあたる)とも、言われる武茂六郎正綱に武茂氏当主を継承させたが、のちにその正綱も、明綱の死後に宇都宮氏の第16代当主となったため、正綱の子武茂兼綱が武茂氏を継承している。ところが、兼綱は15世紀末に宇都宮氏の第17代当主になった実弟の宇都宮成綱に対して反乱を起こし、最終的に成綱に鎮圧されている〔。兼綱の子の武茂守綱の代には佐竹氏や那須氏と抗争を続けたが苦戦が続いた。その子の武茂豊綱の代には豊臣秀吉の小田原征伐後の検地により常陸国に国替えになり、関ヶ原の戦い後は佐竹氏とともに秋田に移り存続した。 ==系譜== ;実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係。 〔 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「武茂氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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