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武藏野 弥助(むさしの やすけ、文政7年(1824年)- 安政6年7月(1859年))は、武蔵川部屋に所属した元力士。 本名は森山 竹藏。身長,体重は不明。出身地は現在の長野県飯山市(旧・信濃国高井郡)。 最高位は東前頭5枚目。飯山藩主本多家お抱えの力士だった〔信濃力士伝1(不動産鑑定・コンサルティング | 内藤事務所有限会社・2008年3月23日記事) 〕。 1845年3月初土俵。1858年11月新入幕。しかし入幕から僅か8ヶ月後の1859年7月、大坂巡業である大名の息子が土俵上で放尿した時に、皆は大名の権威を恐れて黙視する中で、義憤を押さえられず殴ったので即日手打ちに遭ったと伝わる〔〔中村倭夫著「信濃力士伝 江戸時代篇」192p甲陽書房〕〔「秋津村誌」872P飯山市役所秋津公民館編〕。まだ36歳の若さだった。小さい頃から粗暴な性格であり、それが仇になってしまった〔。とは言え、当時は武士の権威がとても高く、それを傘に着て乱暴な振る舞いを土俵上でする者(特に大名の息子)も少なくなかった〔。尚、弥助に殴られた息子は半身不随の重傷を負ったと伝わる〔。また師匠の8代武蔵川も監督不行届けにより、年寄を罷免され角界から永久追放された(追放後は消息不明のまま、間もなく亡くなったと伝えられる)〔7代目武蔵川大治郎墓碑の発見 Ⅲ(まにちゃんの歴史話・2011年5月24日記事) ※9 大乗院武蔵川家墓碑の項に8代武蔵川の記述がある。〕。没後から約70年後の1927年8月、生家から程近い飯山市静間飯駒に記念碑が建てられた。 幕内通算2場所(うち1場所は神田京橋町を中心とする大火〔幕末年表(坂の上の雲マニアックスのHP) ※1858年11月15日に発生した。〕により中止されているので、実質1場所)、2勝3敗5休の成績を残した。 改名歴は2回ある:丹波川→武ノ川→武藏野 〔http://sumodb.sumogames.de/Rikishi.aspx?r=3394&l=j〕 == 出典 == 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「武藏野弥助」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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