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武藤信義 : ミニ英和和英辞書
武藤信義[むとう のぶよし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ふじ]
 【名詞】 1. wisteria 
: [まこと, しん]
  1. (adv,n) truth 2. faith 3. fidelity 4. sincerity 5. trust 6. confidence 7. reliance 8. devotion 
信義 : [しんぎ]
 【名詞】 1. faith 2. fidelity 3. loyalty 
: [ぎ]
 【名詞】 1. justice 2. righteousness 3. morality 4. honour 5. honor 

武藤信義 : ウィキペディア日本語版
武藤信義[むとう のぶよし]

武藤 信義(むとう のぶよし、1868年9月1日慶応4年7月15日) - 1933年7月27日)は、日本陸軍軍人元帥陸軍大将正二位勲一等功一級男爵関東軍司令官駐満大使関東長官教育総監軍事参議官東京警備司令官等を歴任した。
== 経歴==
慶応4年、佐賀藩士・武藤信直の次男として生まれる。
教師を志して佐賀師範学校に入学するも、失望して中退したのちは陸軍を志して陸軍教導団へ入団する。卒業後、陸軍歩兵二等軍曹(後の伍長に相当する。)に任官。陸軍士官学校を明治25年7月23日卒業。翌年3月13日に陸軍歩兵少尉に任官。卒業後、歩兵第24連隊小隊長として日清戦争に出征。戦後は陸軍大学校に入校。明治32年、第13期の首席の成績を修めて恩賜の軍刀を授けられる。
日露戦争における鴨緑江会戦勝利の功により、鴨緑江軍参謀に進む。日露戦帰還後は、ロシア公使館付武官補佐官、明治41年12月21日に参謀本部欧米課長。明治44年1月26日に陸軍大佐、大正元年12月18日から近衛歩兵第4連隊長、大正4年4月10日から参謀本部作戦課長を務める。大正5年(1916年)5月2日陸軍少将、歩兵第23旅団長。大正7年7月24日に参謀本部附を命ぜられてハルピン特務機関長。同年11月9日からオムスク特務機関長、シベリア出兵にあっては現地支援した。大正8年1月15日参謀本部第1部長、同年7月25日陸軍中将、総務部長に移る。
大正10年5月5日第3師団長に親補、翌年11月24日参謀次長。大正14年5月1日に軍事参議官に親補、翌年3月2日から東京警備司令官を兼ねて陸軍大将に親任。同年7月28日に関東軍司令官に就任。昭和2年8月26日、教育総監。昭和5年2月、参謀総長職を辞退して金谷範三に譲る。昭和7年5月15日に五・一五事件が起った事により引責辞任、5月26日から軍事参議官に退く。
昭和7年8月8日再び関東軍司令官に就任、満州国駐在特命全権大使と関東長官を兼務。9月15日に同国務総理・鄭孝胥との間で日満議定書を調印。満州国内の治安維持や熱河平定の軍功により、昭和8年5月3日に元帥号を賜る。
昭和8年7月22日、黄疸に罹って新京で倒れ、8月27日午前7時50分薨去。薨去に際し、7月27日付で正二位勲一等旭日桐花大綬章・功一級金鵄勲章。またこの際、男爵位の授爵を打診されたものの、家族が辞退した事によって8月6日に改めて授爵した。天皇から御沙汰書を賜る。墓所は東京都文京区護国寺墓地。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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