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武見潤 ( リダイレクト:武見龍磨 ) : ウィキペディア日本語版
武見龍磨[たけみりょうま]

武見龍磨(たけみりょうま)本名:武田良史、1月3日京都市生まれ。俳優演出家、演劇企画室「劇論◎三者会談」主宰。母親は元大映女優の小柳圭子。
== 経歴 ==
1973年京都市私立東山高等学校卒業後、京都造形芸術学院(旧藤川学園)グラフィックデザイン科に入学。1975年卒業後、京都の中堅広告代理店に入社。グラフィック・デザイナーとして第1歩を踏み始める。
1977年、広告代理店を退社すると同時に22歳の若さでグラフィック・デザイナーを廃業。俳優を志し上京する。劇団青俳の付属俳優養成所に入り、1年間の基礎訓練を受ける。本科終了後、1980年俳優事務所の現代制作舎に所属。また、1981年名倉ジャズダンススタジオに入り名倉加代子に師事。現代制作舎では6年間、小劇場公演、TVドラマ、映画などで活動。1986年退社。同年、俳優事務所の鈍牛倶楽部に所属。TVドラマ、映画などに出演する傍ら劇団東京壱組の創立に参加。同劇団では3作品に出演。
1990年~1995年FMラジオドラマ「マイ・ロンリー・ハートランド」の主演を務める。同番組では毎回4~5人の登場人物をひとりで演じ分ける経験をし、その後の俳優活動に大きなプラスとなる。
1990年~2002年の間、俳優事務所3社を渡り歩き、舞台、ラジオドラマ、TVドラマ、劇場映画、Vシネマ、CMナレーションで活動し2002年8月劇団四季に入団。ミュージカルストレートプレイに出演する。もっぱら歌、ダンスの必要とされないキャラクターに配役されるが、ブロードウェイミュージカル『Wicked』ではついにソロナンバーのあるキャラクターで出演する。「死ぬ気で頑張った」と後に語った。6年間、9演目に出演し2008年に退団。
2009年4月、演劇企画室「劇論◎三者会談」を創立。俳優のほか劇作・演出家としての活動を開始。劇団という形をとらず、公演ごとに俳優を迎えて上演している。戦争、事件など歴史上の事実をモチーフとしたオリジナル作品を展開。
2010年1月、朝鮮人BC級戦犯を題材にした第1回公演『ビンタン・ブサール』(インドネシア語で“大きい星”の意)を東京・下北沢OFFOFFシアターにて上演。台本執筆にあたり、内海愛子著「キムはなぜ裁かれたのか」、NHK特集「 BC級戦犯 獄窓からの声」に想を得ている。演出協力として盟友・大谷亮介の力を仰ぐ。『ビンタン・ブサール』の最大の特徴は登場人物15名を4人の俳優で演じ分けることにあり、俳優個々の技量が激しく問われることである。出演者のひとりである武見にとって先述のFMラジオドラマにおける経験が物を言う場ではあるが、彼は1役だけで他の3人の俳優で14役を演じ分けなければならなかった。3人にとってひたすら大変な思いをした演目だった。
2010年10月、恵泉女学園大学(東京都・多摩市)からの依頼により『ビンタン・ブサール』を上演する。今公演は出演者6名で上演した。
武見は演劇活動の一環としてインドネシアベトナムカンボジアへの取材を積極的に行っており2009年、2010年にジャカルタスラバヤバリハノイカントーホーチミンシティホイアンシェムリアッププノンペンなどの都市に数回訪れている。特に2010年11月21日~12月8日のカンボジア、ベトナム旅行では現地での取材結果(画像1200カット、映像130分、音声50分)をまとめ2011年1月「カンボジア、ベトナム18日間-見たこと、聞いたこと、全部見せます話します会」~(旅の報告会)とタイトルを付けセミナーを開催した。
2011年1月、全国公演バージョンとして朗読劇『ビンタン・ブサール』を書き上げ、2011年3月東京都世田谷区内のホールにて上演した。 公演日はVTRの撮影を行い、編集後PVとして展開している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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