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武見龍磨(たけみりょうま)本名:武田良史、1月3日京都市生まれ。俳優、演出家、演劇企画室「劇論◎三者会談」主宰。母親は元大映女優の小柳圭子。 == 経歴 == 1973年京都市私立東山高等学校卒業後、京都造形芸術学院(旧藤川学園)グラフィックデザイン科に入学。1975年卒業後、京都の中堅広告代理店に入社。グラフィック・デザイナーとして第1歩を踏み始める。 1977年、広告代理店を退社すると同時に22歳の若さでグラフィック・デザイナーを廃業。俳優を志し上京する。劇団青俳の付属俳優養成所に入り、1年間の基礎訓練を受ける。本科終了後、1980年俳優事務所の現代制作舎に所属。また、1981年名倉ジャズダンススタジオに入り名倉加代子に師事。現代制作舎では6年間、小劇場公演、TVドラマ、映画などで活動。1986年退社。同年、俳優事務所の鈍牛倶楽部に所属。TVドラマ、映画などに出演する傍ら劇団東京壱組の創立に参加。同劇団では3作品に出演。 1990年~1995年FMラジオドラマ「マイ・ロンリー・ハートランド」の主演を務める。同番組では毎回4~5人の登場人物をひとりで演じ分ける経験をし、その後の俳優活動に大きなプラスとなる。 1990年~2002年の間、俳優事務所3社を渡り歩き、舞台、ラジオドラマ、TVドラマ、劇場映画、Vシネマ、CMナレーションで活動し2002年8月劇団四季に入団。ミュージカル、ストレートプレイに出演する。もっぱら歌、ダンスの必要とされないキャラクターに配役されるが、ブロードウェイミュージカル『Wicked』ではついにソロナンバーのあるキャラクターで出演する。「死ぬ気で頑張った」と後に語った。6年間、9演目に出演し2008年に退団。 2009年4月、演劇企画室「劇論◎三者会談」を創立。俳優のほか劇作・演出家としての活動を開始。劇団という形をとらず、公演ごとに俳優を迎えて上演している。戦争、事件など歴史上の事実をモチーフとしたオリジナル作品を展開。 2010年1月、朝鮮人BC級戦犯を題材にした第1回公演『ビンタン・ブサール』(インドネシア語で“大きい星”の意)を東京・下北沢OFFOFFシアターにて上演。台本執筆にあたり、内海愛子著「キムはなぜ裁かれたのか」、NHK特集「 BC級戦犯 獄窓からの声」に想を得ている。演出協力として盟友・大谷亮介の力を仰ぐ。『ビンタン・ブサール』の最大の特徴は登場人物15名を4人の俳優で演じ分けることにあり、俳優個々の技量が激しく問われることである。出演者のひとりである武見にとって先述のFMラジオドラマにおける経験が物を言う場ではあるが、彼は1役だけで他の3人の俳優で14役を演じ分けなければならなかった。3人にとってひたすら大変な思いをした演目だった。 2010年10月、恵泉女学園大学(東京都・多摩市)からの依頼により『ビンタン・ブサール』を上演する。今公演は出演者6名で上演した。 武見は演劇活動の一環としてインドネシア、ベトナム、カンボジアへの取材を積極的に行っており2009年、2010年にジャカルタ、スラバヤ、バリ、ハノイ、カントー、ホーチミンシティ、ホイアン、シェムリアップ、プノンペンなどの都市に数回訪れている。特に2010年11月21日~12月8日のカンボジア、ベトナム旅行では現地での取材結果(画像1200カット、映像130分、音声50分)をまとめ2011年1月「カンボジア、ベトナム18日間-見たこと、聞いたこと、全部見せます話します会」~(旅の報告会)とタイトルを付けセミナーを開催した。 2011年1月、全国公演バージョンとして朗読劇『ビンタン・ブサール』を書き上げ、2011年3月東京都世田谷区内のホールにて上演した。 公演日はVTRの撮影を行い、編集後PVとして展開している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「武見龍磨」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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