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歩 練師〔『建康実録』より。〕(ほ れんし、? - 238年)は、三国時代の呉の大帝孫権の妻の一人。徐州臨淮郡淮陰県(現在の江蘇省淮安市)の出身。最も深くその寵愛を受けたと言われている。死後に皇后の位を追認された。『三国志』においては、歩夫人と呼称されている。子は孫魯班・孫魯育。同族に歩隲がいる。 == 生涯 == 後漢の末、母親に連れられ、廬江に移住した。廬江が孫策に破られると、一家で長江を渡り江南へ移った。その後、孫権に見初められ夫人となった。容貌が美しかったため、孫権に深く愛され、その寵愛ぶりは後宮中第一であった。步夫人は孫権との間に2人の娘を産んだ。步夫人は嫉妬を知らぬ性格であり、後宮の他の女性達の後ろ盾にもなっていたため、孫権からも長く愛されることとなった。 229年、孫権は帝位に就くと、步夫人を皇后にしたいと考えた。しかし呉の重臣たちは皆、徐夫人を皇后にすべきだと進言した。そのため孫権は思い悩み、この問題に決着が付けられないまま10年余りが経過した。しかし宮中では、誰もが歩夫人のことを皇后と呼び、親戚の者たちが上奏する際も彼女を中宮(皇后のいる宮殿、転じて皇后自身を指す)と呼んだ。 238年死去した。臣下たちは孫権の意向を受け、彼女に正式に皇后の位を追贈するよう申し入れた。そこで歩夫人に皇后の証である印綬が贈られ、策命(皇后に冊立するための任命書)が下された。これにより、歩夫人は正式に皇后となり、蒋陵(孫権の陵墓)に葬られた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「歩練師」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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