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段 煨(だん わい、? - 209年)は、中国の後漢時代末期の武将・政治家。字は忠明〔盧弼、『後漢書集解』〕。涼州武威郡の人。 == 事跡 == 董卓配下の部将。初平2年(191年)、反董卓連合の孫堅に胡軫・呂布らが敗れ、葉雄(華雄)が戦死した。孫堅の進攻に備えるためとして、段煨は董卓の命により中郎将として華陰に駐屯した〔『後漢書』巻72列伝62董卓伝本伝〕。段煨による華陰の統治は、農業に勤しみ略奪を行わないなど堅実なものであり〔『三国志』魏書10賈詡伝注『典略』〕、董卓死後数年に渡り華陰に留まっていたと見られる。 興平2年(195年)冬、李傕・郭汜の乱を避けて献帝が長安より華陰に避難してくると、寧輯将軍となっていた段煨は衣服などを提供して供応し、自陣に迎えようとした。しかし、献帝を護衛していた後将軍の楊定と不仲であり、結局その攻撃を受けることになったため、果たせなかった〔『後漢書』董卓伝注袁宏『漢紀』によると、段煨は楊定への警戒から、献帝の輿を迎える際に、馬上から下りずにこれを迎えた。そのため、楊定と親しかった侍中の种輯が段煨は叛逆すると讒言し、さらに楊定や董承は「郭汜が700騎を率いて段傕の陣営に入ろうとしています」と告げたため、献帝は段煨の陣営から離れたという。〕。ただこの間も、段煨は自らには私心が無いことを証するために、献帝や百官への奉仕を怠らなかった。その後、李傕・郭汜が段煨を救援して楊定を挟撃したため、楊定は荊州へと敗走した〔。 またこの頃、李傕の部下であった賈詡が、同郡出身の縁故から段煨を頼ってきている。段煨は賈詡の才を恐れながらも優遇したが、賈詡もその内心を見抜いて、まもなく張繍の下へと去った。しかし残された賈詡の家族を、段煨は丁重に扱っている〔『三国志』賈詡伝本伝〕。 建安3年(198年)、謁者僕射の裴茂が李傕討伐に向かうと、段煨はその指揮下に入り李傕を誅滅した〔。その後は、入朝して大鴻臚・光禄大夫となり、建安14年(209年)に死去した〔『三国志』賈詡伝注『献帝紀』〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「段ワイ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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