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段 祺瑞(だん きずい)は清末民初の軍人・政治家。馮国璋・王士珍とともに「北洋の三傑」と称された。字は芝泉、晩年の号は正道居士。 == 事績 == === 北洋の三傑 === 李鴻章と同郷出身であり、また祖父の段佩も淮軍の将校であったことより高級軍人の道を進むこととなった。1885年(光緒11年)、天津武備学堂砲兵科に入学し、1889年(光緒15年)に卒業する。同年、李に派遣されてドイツに留学したことで、引き続き砲術を学べた上に近代軍事学を習得する機会を得ることになった。翌年帰国し、北洋軍械局委員、威海随営武備学堂教習を歴任している〔李(1978)、162頁。〕。 1896年(光緒22年)、段祺瑞は袁世凱の新建陸軍に加入し、砲兵隊統帯兼随営学堂監督して軍の近代化を担った。1899年(光緒25年)、山東省へ向かい義和団の乱鎮圧に従事している。1901年(光緒27年)、段は武衛右軍各学堂総弁に起用され、同年末に袁が直隷総督兼北洋大臣になると、それに従い保定に移動した。翌年6月、段は北洋軍政司参謀処総弁に任命され、北洋常備軍の編成・錬成の責任を負っている。1903年(光緒29年)12月、袁が練兵処会弁大臣に就任すると、袁の推薦により段が練兵処軍令司正使となり、さらに副都統の位も授与された。なお、段らが「北洋の三傑」と呼ばれ始めたのはこの頃である〔。 1904年(光緒30年)、段祺瑞は常備軍第3鎮翼長署理を兼任し、翌1905年(光緒31年)2月には第4鎮統制に起用され、さらに河間秋操北軍総統も担当した。1906年(光緒32年)初めには第3鎮統制署理に移り、北洋武備学堂督理も兼任している。同年3月、福建省汀州鎮総兵の位を授与されたが、段は現地に赴かず北洋軍に留まり、保定軍官学堂総弁に任ぜられた。以後、段の学生たちは続々と北洋軍に補充され、北洋軍における段の影響力は次第に増強されていくことになる。1909年(宣統元年)に袁が一時失脚すると、同年12月に段は第6鎮統制に移され、翌1910年(宣統2年)12月には江北提督として江蘇省清江に移駐した〔李(1978)、162-163頁。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「段祺瑞」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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