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段 部(だん ぶ、拼音:Duàn Bù)は、中国の西晋時代から五胡十六国時代にかけて遼西地域(現在の北京市周辺)に存在した鮮卑の一部族。 ==歴史== 段部の始祖である日陸眷は反乱によって売りに出され、漁陽烏丸の大人である庫辱官の家内奴隷となった。その後、漁陽で大飢饉が起きると、庫辱官は健康そうな日陸眷をみて遼西まで食料調達に行かせた。日陸眷はこれを機に庫辱官に叛いて独立し、遼西で強盛となる。 日陸眷の甥であるの務目塵は遼西の地を根拠地として晋朝に臣従した。その部民は3万余家、騎兵は4,5万におよんだ。晋の恵帝の時、幽州刺史の王浚からたびたび起用され、東海王越を助けて成都王穎征討の功があり、太安2年(303年)、務勿塵は王浚から表されて親晋王を授かり、遼西公に封じられる。また、王浚の娘を娶ったりするなど、務勿塵と王浚は親密な仲となる。懐帝が即位すると(306年)、務勿塵は大単于となり、次子の匹磾には左賢王の印綬が授けられた。王浚は再び務勿塵に1万余騎を率いさせて後趙の石勒を常山の封龍山下で大敗させる。務勿塵が死ぬと、弟の渉復辰は務勿塵の子の疾陸眷(就六眷)に大人位を継承させた。 漢(前趙)の劉曜が洛陽に迫ると、王浚は督護の王昌らを派遣して疾陸眷及びその弟の文鴦を率い、疾陸眷の従弟である末波は石勒を襄国にて攻めるが、石勒に捕らわれてしまう。石勒は末波を人質にして講和を求めた。疾陸眷は弟の文鴦に諌められるも末波を案じてこれを承諾。さらに石勒の甥である石虎と同盟を組み、兄弟の契りを結んだ。 建武元年(317年)、段匹磾が劉琨と同盟を結び、石勒を攻撃しようとした際、石勒から賄賂を受け取っていた末波をはじめ、石虎と兄弟の契りを結んだ疾陸眷、叔父の渉復辰は協力しなかった。翌年(318年)、疾陸眷が病死する。匹磾は劉琨の世子である劉群とともに薊から奔喪し、右北平郡に至ったところで末波に襲撃された。さらに末波は渉復辰及びその子弟親戚200余人を殺し、自ら単于と称して段部大人となった。これに対し匹磾も自立し、段部は分裂した。末波は匹磾を攻撃するが、匹磾と結んだ邵続に敗れる。しかし、匹磾と弟の文鴦,邵続らは321年、石勒に滅ぼされた。 段末波の死後(325年)、その弟の段牙が立ったが、すぐに亡くなり、疾陸眷の孫の段遼が立ち、自ら幽州刺史・大単于を称した。331年2月、段遼は東晋より驃騎将軍に任ぜられ、北平公に封ぜられる。333年、慕容部で内乱が起こると、段遼は慕容翰をかくまい、宇文部とともに慕容仁側を支援した。334年、段遼は弟の段蘭,慕容翰とともに慕容部の慕容皝を襲撃するが敗北。338年2月、遼西を後趙の石虎に攻撃され、段遼は平岡山へ逃走し、前燕を建国した慕容皝のもとへ逃れるが、慕容皝に殺された。 343年8月、段蘭は宇文部の逸豆帰に捕まり、石虎のもとへ送られ、遼西郡令支県に駐屯させられた。しかし、段蘭はたびたび挙兵して石虎を煩わした。 段蘭が令支で死ぬと、子の段龕がこれに代わった。350年、段龕は段部を領したが、冉閔の乱により、部落を擁して南へ遷った。7月、段龕は兵を率いて東の広固に拠り、自ら斉王と称した。351年1月、段龕は青州とともに前秦に内附し、2月には苻健より鎮北将軍・封斉公に封ぜられる。 356年10月、前燕の慕容儁は弟の慕容恪に段龕を広固で討たせた。11月、段龕を捕えて薊に送り、慕容儁は段龕を伏順将軍とした。357年6月、慕容儁は段龕を毒殺し、その徒三千余人を穴埋めの刑に処した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「段部」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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