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『殷周伝説・太公望伝奇』(いんしゅうでんせつ・たいこうぼうでんき)は、横山光輝による日本の漫画作品。『コミックトム』(潮出版社)にて1994年5月号から『コミックトムプラス』2001年7月号まで連載された。単行本は全22巻。文庫版は全12巻。 中国の伝奇小説『封神演義』を題材にした作品。『武王伐紂平話』をベースに、『史記』も参照しつつ、殷代末から殷の滅亡および周建国までを描いていく。単行本最終巻刊行直後に作者が火災により急逝したため、本作は作者の遺作となった。 最終巻である22巻のコミックトム編集部による後書きによれば、横山は孫子(孫武)に興味を持ち資料を集めていたといい(本作連載開始時には資料不足であったため、本作が選ばれた。他には呉越の戦いを構想していたが、展開が『項羽と劉邦』に似るため新鮮味がないとして廃案となった)、作品の最後で太公望に「300年後」を語らせていることから言っても次回作は孫子を題材にしたものだったであろうとし、横山の事故死を嘆いている。また本作は横山が大病や骨折と戦いながら満身創痍で描ききったものであったが、連載中の横山の口癖は「なにがなんでも完結させる」であったという。 作品名の通り、特に後半については主人公は太公望と見なせるもので、彼の活躍が多く描かれているほか、殷の紂王の悪逆ぶりが多く描かれている。また本作は周が殷を滅亡させるまでの物語であり、それは武力によってなされたため、紙幅の多くが戦闘に割かれている。 本作には原作通り道士、道術と言った要素が多数登場しており、「超能力バトル」とも言える戦いが頻発しており、戦闘場面においては同じ横山の歴史作品である『三国志』や『史記』などとは趣が異なるほか(前述の後書きによれば、横山も封神演義は荒唐無稽であると語っていたという)、そもそもの事のおこりは妖怪の悪行によるという設定で物語は進んでいく。 == あらすじ == 紀元前1711年・夏の滅亡後、殷(商)の時代が始まった。殷は栄えて600年以上後、第30代帝乙の時代に入った。ある日地震が起こり、帝乙の城が崩壊したのと前後して、後の紂王となる帝乙の第三皇子が産まれた。その子は震災の中で生まれた強運の子とされ、育つ中で文武共に2人の兄を凌ぐほどまでに才を発揮していった。帝乙の死後、天子に即位した紂王は、即位後しばらくは聡明な天子として聞仲や商容などの家臣に支えられて殷を平和にしていった。 ところがある日、姜皇后に「女宮」に参詣することを勧められた紂王は、女宮に赴く。その宮の天女に魅入られた紂王は、壁に自身のやましい想いを籠めた詩を書く。これを読み取った天女は快楽の対象にされたことに激怒し、魂が天に帰路してしまう。これにより首都・朝歌への天女の加護を失ったことが、後の殷崩壊の引き金となった。 紂王が即位して7年、天女の姿が忘れられない紂王はある日、諫大夫の費仲と尤渾から蘇護の娘・妲己が天女に相応する美女であると聞いた際、蘇護を呼び出し妲己を差し出すよう命令するが、蘇護はそれを拒否。激怒した紂王は処刑しようとするも、費仲の諌めにより許される。蘇護は紂王が女に溺れていることに憤怒し、反旗を翻す。後に崇侯虎との交戦を経て、姫昌に説得された蘇護は妲己を紂王に差し出すことになった。その前日の晩、天女が居なくなったゆえに妖怪が侵入し、妲己に乗り移る。この妖怪はもとは天界の住人だったが、人間性悪説を説いたため地に落とされてしまったものだった。妲己は紂王の寵愛を受け、姜皇后を死に追いやったは皇后同然に扱われ、紂王を思うがままにその美貌と口車で操り、暴君に仕立て上げてしまう。妖怪の目的は人間性悪説を証明し、天を見返してやることだったのである。その暴政を見かねた家臣たちは諫言するも、紂王は妲己の言うことが正しいとして全く聞き入れず、諫言者たちを次々と処刑していき、妲己の考案した残虐な処刑法で人が苦しみ死んでいくことに快楽を感じるようにまでなってしまった。そんな紂王を見て心ある諸侯君が君たらねば臣も臣にあらずと殷を見限り各地で反乱を起こし、或いは諸国に亡命し、そして民には怨嗟の声が蔓延した。 有力な四候を誅殺しようとした妲己の策謀により謀反の罪に問われ、7年間幽閉された西岐(周、洛陽の西潼関のさらに西にある)の領主・姫昌は解放され、紂王から文王という破格の地位に任命される。その後姫昌は、崑崙山で仙術の修行をしたあと下山し紂王に仕官したものの、そのあまりの暴君ぶりに野に下り仕えるべき君主を探していた呂尚(太公望)と出会う。呂尚に君子に必要なものを説かれた姫昌は、彼を丞相に迎え入れ、善政を敷き国力を高め、紂王討伐に向けて挙兵する。 挙兵後しばらくは防戦に徹していた周軍だったが、呂尚の優れた謀略を持って連戦連勝し、多くの亡命の将と投降兵を得る。だが姫昌は志半ばに病に倒れてしまい、子の姫発が後を継ぎ父の志を受け継ぎ、武王を称し殷との戦いを続けた。 その後孟津で殷に対抗する天下の三分の二にも値する八百諸侯連合が組まれることとなり、これに参加するため呂尚は出師の表を奏上。孟津へ向け攻勢に打って出る。周軍は殷軍の投降兵を吸収し、60万もの大軍となっていた。周軍は多くの将を失いながらも殷の要衝を突破、孟津へ到着し、諸侯連合を結成、その盟主(覇王)となる。 連合軍は黄河南岸の孟津から、北岸の朝歌へ渡河し、紂王自ら率いる100万の大軍との決戦に挑む。だが既に将兵ともに紂王を見限っていた前軍は戦わずして降伏。続いて中軍まで降伏してしまい、紂王はやむなく自ら率いる後軍を退却させ、朝歌城で籠城戦を行おうとする。 しかし呂尚は城内へ領民へ向けた矢文を打ち込み、我こそが世を正さんとする天兵である、城門を開けとの宣撫工作を行う。これが功を奏し、領民は武器を手に取り城門を開放に向かうが、既に城門を守る兵士の多くも紂王と殷を見限っており、城内各所で内乱が勃発。門は解放され、連合軍は朝歌城内へ容易に入城する。領民は連合軍を歓迎して迎え、あとは紂王の討伐を残すのみとなった。 紂王は最後と悟り、民衆に多大な負担を与えて完成させた鹿台へ赴き、火を放ち自害。殷王朝はここに滅亡した。また妲己を始めとする妖怪たちは新たな乱世を待つため、しばしの眠りについた。 翌日、武王・姫発は天子を宣言し、周王朝をひらく。天下は72の諸国に分けられ、諸侯はそこに封ぜられた。呂尚は周王朝による平和な治世は最初の300年は平穏に、その後も諸侯に守られ細々と続くと占ったと語る。これにて物語は完結する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「殷周伝説 (横山光輝)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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