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殷 承瓛(いん しょうけん)は清末民初の軍人・政治家。中国同盟会に属した革命派の人物で、後に雲南派の軍人となり、護国戦争(第三革命)では護国軍に参加した。字は叔桓。 == 事績 == === 革命派としての活動 === 廩生(食禄を支給された生員)であった殷承瓛は、1903年(光緒29年)に日本へ留学する。東京振武学校を経て、陸軍士官学校第5期工兵科で学んだ〔雲南省陸良県志編纂委員会編(1991)、894頁は、1904年(光緒30年)に留学し、陸軍士官学校第6期卒業としている。〕。また、この際に中国同盟会に加入している。帰国後、雲南の新建陸軍第19鎮に加入し、正参謀官、正参議などを歴任した。雲南陸軍講武堂の創設にも関与している〔劉国銘主編(2005)、1987頁〕〔徐主編(2007)、1250頁。〕〔雲南省陸良県志編纂委員会編(1991)、894-895頁〕。 1911年(宣統3年)の辛亥革命では、殷承瓛は革命派における主導者の1人として、蔡鍔、唐継尭らとともに謀議に参加した。そして10月30日に、革命派は昆明で蜂起を決行した(昆明重九起義)。蜂起成功後に、蔡を都督とする大漢雲南軍都督府が樹立されると、殷は同政府の参謀部総長に任命された〔雲南省陸良県志編纂委員会編(1991)、895頁〕〔〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「殷承ケン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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