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殷 汝耕(いん じょこう)は中華民国の政治家。中国同盟会に属した革命派の人物で、民国期には中国国民党に加入している。後に、親日地方政権である冀東防共自治政府の政務長官となった。字は亦農。兄は殷汝驪。 == 事績 == === 初期の活動 === 地方名望家の家庭に生まれ、1902年(光緒28年)に日本に留学した。日本文学院で日本語を学んだ後、1905年(光緒31年)に第一高等学校予科に入学した。その翌年には、鹿児島第七高等学校造士館に転入している。この頃、留学生の間で革命思想が流行していたこともあって、留学中に中国同盟会に参加した〔陳(2002)、463頁。〕〔徐(2007)、1247-1248頁〕。なお、殷は日本人女性と結婚している。 1911年(宣統3年)に辛亥革命が発生すると、殷汝耕は黄興にしたがって帰国し、湖北省で革命に参加した。中華民国が成立すると、殷は国民党に加入している。1913年(民国2年)に第二革命(二次革命)が勃発すると、殷は革命派としてこれに参加した。しかし革命派は敗北し、殷は再び日本へ留学する。〔徐(2007)、1248頁〕日本では、兄の殷汝驪が欧事研究会の発起人に名を列ね、殷汝耕もまたその構成員となった。〔謝・李(1999)。〕 早稲田大学政治学科を卒業した後の1916年(民国5年)に、殷汝耕は帰国した。当初は北京政府に入り、中国銀行から委託された調査のため、またしても日本に赴いている。その翌年に護法運動が勃発すると、孫文(孫中山)の護法軍政府により、殷は駐日委員に任命された〔〔。 1920年(民国9年)に帰国すると、殷汝耕はいったん政界を離れて実業に従事している。1925年(民国14年)10月、臨時執政段祺瑞が開催した関税会議に顧問として招聘された。同年11月、奉天派の軍人・郭松齢が張作霖に対して兵変を発動すると、殷は郭の配下となり、外交処長に任ぜられた。しかし翌月に郭は敗死し、殷は日本領事館に逃げ込んでいる〔陳(2002)、463-464頁。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「殷汝耕」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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