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殷 汝驪(いん じょれい)は中華民国の革命家・政治家。中国同盟会以来の革命派人士である。字は鋳夫。弟は殷汝耕。孫娘に(前・台湾高速鉄道董事長)がいる。 == 事績 == 上海震旦大学を卒業し、日本に留学して早稲田大学政治経済科に入学した。このとき、中国同盟会に加入している。卒業して帰国すると、湖北法政学堂教習に任命された〔徐主編(2007)、1248頁。〕〔劉国銘主編(2005)、1986頁。〕〔中華民国財政部ホームページ。〕。 中華民国成立後に統一共和党で常務幹事となる。1913年(民国2年)、衆議院議員に選出された。しかし二次革命(第二革命)で孫文(孫中山)に与して敗北し、日本に亡命している〔〔。日本では革命派の軍事学校である「浩然廬(浩然学社)」の創設に携わり〔、さらに翌1914年(民国3年)、欧事研究会の発起人に名を列ねた(弟の殷汝耕も構成員となっている)〔謝・李(1999)。〕。同年帰国し、『時事新報』(上海)の設立に携わる〔〔。 1916年(民国5年)7月27日、北京政府財政部次長署理に任ぜられる〔『政府公報』第203号、1916年(民国5年)7月28日。〕。しかし翌年4月、精銅工場から賄賂を受け取ったとの疑惑をかけられて逃亡し(後に事実無根と判明)、孫文らの広東軍政府に合流した〔〔〔。1920年(民国9年)、瓊崖実業交通事務処処長に任ぜられる。後に江蘇省銀行総経理となった〔〔。 国民政府では、1927年5月2日に福建省政府委員に任命された〔『国民政府公報』第3号、5頁。〕。8月には国民政府財政部国税特派員、10月25日には福建塩運使もそれぞれ兼任している〔『国民政府公報』第3号、22頁。〕。翌1928年(民国17年)8月27日、これらの職を辞任している〔『国民政府公報』第87号、6頁。〕〔徐主編(2007)、1248頁によると、1928年2月に福建省民政庁庁長に就任したとあるが、『国民政府公報』や劉寿林ほか編(1995)では確認できない。〕。1932年(民国21年)1月7日、国民政府文官処参事に任ぜられた〔『国民政府公報』第971号、1頁。〕。後に職を離れ、上海で会計士となる。その傍ら、旅滬全浙公会主席団主席、東北義勇軍後援会常務理事をつとめた。日中戦争(抗日戦争)勃発後は四川に移って活動を続けた〔〔。晩年は書画を楽しんだという〔。1940年(民国29年)、成都市で病没〔〔。享年58。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「殷汝驪」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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