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母里 友信(もり とものぶ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。黒田氏の家臣。通称は太兵衛・多兵衛(たへえ、たひょうえ)、幼名は万助。但馬守を称す。 槍術に優れた剛力の勇将として知られ、栗山利安と共に黒田軍の先手両翼の大将を務めた。黒田二十四騎の中でも特に重用された黒田八虎の一人である。また、「黒田節」に謡われる名槍「日本号」を福島正則から呑み獲った逸話でも知られる。 「もり」という読みから江戸幕府の文書などに「毛利」と誤記され、実際に一時期「毛利」と改姓したため「毛利但馬」「毛利太兵衛」と表記されることも多い。なお、黒田家中での正式な読みは「ぼり」であり、福岡県内(福岡市博物館など)では現在でもこう読まれることもある。 == 生涯 == 母里氏は、出雲国の尼子氏に繋がる(出雲国母里(望里)の出自という説がある。『出雲風土記』の時代から島根県安来市あたりの地名である)播磨国の国人であり、現在の兵庫県加古郡稲美町母里が本貫とされる。同地には宗佐城があったが友信が生まれた頃には別所安治の娘婿、上原丹後守祐光の領地になっている。 播磨国飾磨郡妻鹿の国人・曽我一信(そが かずのぶ)の子として誕生。弟に野村祐勝がいる。妻は大友宗麟の娘。父・一信は播磨国で勢力を持っていた小寺氏に仕え、黒田職隆の与力的な立場にあったと伝えられる。そのため友信も永禄12年(1569年)、職隆の子・黒田孝高(如水)に出仕した。青山・土器山の戦いにて、奮戦の末一族24人(母里小兵衛・武兵衛ら)が戦死した母里家が絶えるのを惜しんだ孝高により、曽我一信と母里氏の女との間の子であったことから母里姓を与えられ、母里太兵衛となった。 天正元年(1573年)の印南野合戦に初陣して以来、常に先鋒を務めて活躍した。天正6年(1578年)に織田信長に叛旗を翻した荒木村重によって主君・孝高が捕らえられた際に忠誠を誓った留守中連著起請文にも名を連ねた。また、この際に栗山利安・井上之房と共に有岡城に潜入し、孝高の安否を確かめた。その後も孝高に従って中国・四国を転戦し、天正15年(1587年)正月より開始された九州征伐では、豊前宇留津城攻めで一番乗りの戦功を挙げ、孝高の豊前入国後は5,000石(後に6,000石)を与えられた。 文禄・慶長の役にも孝高の子・黒田長政に従って従軍。帰国後の慶長3年(1598年)には栗山利安・井上之房と共に宇佐神宮の造営に当たった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは九州切り取りに動いた如水に従い豊後国で蜂起した義兄・大友義統を降伏させるなど、随所で類稀なる働きを見せ、後に長政が豊前中津18万石から筑前名島52万石に加増移封となった際には筑前鷹取城1万8,000石を拝領した(うち2,000石は息子・友生の拝領)。生涯に挙げた首級は実に76と家中で一番であった。 慶長11年(1606年)、後藤基次が出奔した後、その領地に移されて益富城主となる。この頃に長政から「但馬守」の称号を与えられる。また、江戸城の普請に際して天守台石垣を担当し、それが完成した後に徳川家康からそのねぎらいとして刀を与えられたが、その書状の宛名が「毛利」と誤って記されていたため、長政の命により以後「毛利但馬守友信」を名乗ることとなる〔『黒田官兵衛と二十四騎』159頁〕。 慶長13年(1608年)より、桐山信行と共に長崎街道の冷水峠の整備を行う。 慶長20年(1615年)6月6日死去。享年60。法名は麟翁紹仁、墓所は福岡県嘉麻市大隈の麟翁寺。なお、福岡城二の丸そばに、以前は天神付近にあった友信の屋敷長屋門が移築され、福岡県文化財に指定されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「母里友信」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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