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毛利 マセンシア(もうり マセンシア、元亀元年(1570年) - 慶安元年(1648年))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての日本の女性。名は桂姫、長千代、通称は引地の君。大友義鎮(宗麟)の娘で、毛利秀包の正室。キリシタンであり夫の信仰にも影響を与えた。秀包との間には嫡男元鎮、次男元貞の他女子数名をもうけた。 == 生涯 == 永禄13年/元亀元年(1570年)、義鎮の7番目の娘として誕生。母は元々服部右京亮の妻であったが、宗麟の横恋慕で服部を殺して彼女を奪う。 アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父や乳母のカタリナに影響され、天正13年(1585年)、キリスト教に入信する。乳母カタリナは彼女へ信仰面で援助と影響を大きく与えた人物とされている。 天正15年(1587年)、秀包と結婚。同年、父宗麟が死去。さらにキリスト教が禁じられたが、その後もマセンシアはキリスト教への熱心な信仰を続けた。翌16年(1588年)、久留米城でペドロ・ラモン神父から告解を聞く。 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが勃発。マセンシアは子供達と共に筑後国にいたが、加藤清正、鍋島直茂、黒田如水の軍勢に攻められ生命の危険に晒された。しかし、黒田惣右衛門の尽力で脱出に成功し、秀包のいる滝部へ逃れられた。翌年、夫秀包が没する。 毛利氏の当主毛利輝元はキリスト教を嫌い、迫害、弾圧を行った。マセンシアにも棄教を要求してきたが、これに隷従せず、逆に宣教師の来訪を容認するよう輝元に具申したことさえあり、輝元もついには彼女の信仰を黙認するしかなかった。 正保5年/慶安元年(1648年)に死去。毛利家の菩提寺である神上寺に葬られたが、墓地から離れた山地に墓所は置かれた。キリシタンを信仰していたため敬遠されたことがその理由であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「毛利マセンシア」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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