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毛利 元徳 / 定広(もうり もとのり / さだひろ)、天保10年9月22日(1839年10月28日) - 明治29年(1896年)12月23日)は、長州藩の第14代(最後の)藩主。のち公爵。位階は従一位。勲等は勲一等。 == 生涯 == 徳山藩第8代藩主・毛利広鎮の十男として生まれる。母は三宅才助の娘で側室の多喜勢(滝瀬)。広鎮は還暦を迎えた2年前の天保8年(1837年)に隠居し、すでに成人していた七男(元徳の異母兄)の元蕃が藩主を継いでいた。元徳の兄には他に福原元僴(越後、長州藩家老福原家を継ぐ)、秋元志朝(山形藩主、のち館林藩主)らがいる。徳山毛利家は長州藩祖輝元の男系の血筋を伝える毛利の分家であったが、広鎮の曾祖父元次(輝元の孫)が本家の後継候補から外されたことが元で、長州藩内に確執を生んでいた。元徳は4代吉広以来の、輝元直系の長州藩主となる。 嘉永5年(1852年)2月27日、先代藩主の毛利慶親(のちの敬親)に嗣子がないため、その養子となる。はじめは広封(ひろあつ)と名乗る。安政元年(1857年)2月18日、養父・慶親の嫡子となる。同年3月9日、従四位下侍従・長門守に叙任する。また、将軍・徳川家定から偏諱(「定」の一字)を受けて定広(さだひろ)と名乗った。 安政5年(1858年)、長府藩主毛利元運の次女銀姫(安子)と婚儀を挙げる。銀姫は元徳と前後して慶親の養女となっていた。 元治元年(1864年)7月14日、禁門の変に際し、三条実美らをともない、兵を率い京都に向かう。7月21日、禁門の変の敗北を知り、山口に引き返す。8月22日、幕府により官位を剥奪された。また、「定」の字を召し上げられて、広封に戻す。明治維新後に元徳と改名する。 慶応4年(1868年)2月上洛し、3月議定に就任する。明治2年(1869年)6月4日、養父敬親の隠居で跡を継ぎ、従三位・参議となる。就任後まもなく版籍奉還で知藩事となった。明治4年(1871年)、廃藩置県で免官されて東京へ移り、第15国立銀行頭取、公爵、貴族院議員となった。 明治29年(1896年)12月23日、死去。。国葬を賜った。号は忠愛公。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「毛利元徳」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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