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毛利 勝永(もうり かつなが)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。豊臣氏の家臣。大坂の陣で活躍。また大坂城入りを励ました妻(側室、氏名不詳)は戦前は妻の鏡とされた。 == 生涯 == 天正5年(1577年)、森吉成(毛利勝信)の子として尾張国に誕生する。父の吉成と共に豊臣秀吉の家臣として仕えた。天正15年(1587年)、父・吉成は豊前国小倉6万石(一説に10万石)、勝永にも豊前国内に1万石(4万石とも)を与えられ、この際、秀吉の計らいによって森姓を、中国地方の大名毛利氏と同じ姓に改めている。 慶長2年(1597年)、朝鮮出兵に従軍。慶長の役では、蔚山倭城に攻寄せた明・朝鮮連合軍撃退に戦功を立てた。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、父と共に西軍に参戦した。領国のある九州に下向していた父に代わり中央で軍勢を指揮した勝永は伏見城の戦いで格別な戦功をあげ、毛利輝元・宇喜多秀家より感状と3,000石の加増を受ける。しかし、毛利九左衛門(香春岳城城主)や毛利勘左衛門などの多くの家臣を失った。続く安濃津城の戦いや関ヶ原本戦時には、勝永は輝元家臣と共に安国寺恵瓊の指揮下に置かれ、家中も混乱状態にあり〔光成準治『関ヶ原前夜 西軍大名達の戦い』2009年〕、活躍の場なく終わった。 豊前では小倉城を黒田如水に奪われており、戦後改易となった。父と共にその身柄を加藤清正、次いで山内一豊に預けられた。旧知でもあり親交のあった山内家では1千石の封地をあてがわれ、父子とも手厚く遇されたという。殊に勝永の弟は山内姓を与えられ、山内吉近を名乗るなどの厚遇を受けた〔ただし後に出奔して、浅野家に仕えた。〕。 慶長15年(1610年)5月25日、正室が死去したので、勝永は髪を剃って出家し、一斎と号した。翌年5月7日に白雲院殿好雪神祇と諡して江ノ口村尾戸山喜圓坊に葬り、後に秦村泰山に改葬した。 慶長19年(1614年)、豊臣秀頼よりの招きを受け、土佐からの脱出を計画。その際に留守居役の山内康豊に対して、勝永は徳川方に付いた藩主山内忠義とは昔衆道の間柄で身命を賭けて助け合う約束をしているからどうか忠義の陣中(つまり包囲側)に行かせてほしいと頼んだ。長男毛利勝家を留守居に、次男鶴千代(太郎兵衛)を城へ人質として残すと云うので、康豊は安心して行かせたが、勝永と共に勝家も船で逃げ去り、大坂方に走った。山内忠義は激怒して、勝家の見張りだった山内四郎兵衛に切腹を命じ、鶴千代と勝永の妻と娘は城内に軟禁された。 大坂城に入城した毛利勝永は、豊臣家の譜代家臣ということもあり、諸将の信望を得て大坂城の五人衆と称された。大坂冬の陣では、真田信繁らと共に出撃策を唱えたが容れられず、籠城戦では西丸ノ西・今橋を守備した。 慶長20年(1615年)、大坂夏の陣では、5月6日、道明寺の戦いで敗退した後藤基次らの敗残兵を、毛利勝永隊が収容。勝永は、自軍の中から抽出した鉄砲隊を殿に残し、勝永自身は本隊を率いて、大坂城方面に撤収した。 7日の天王寺口の戦いでは、兵4千を率いて徳川家康本陣の正面、四天王寺南門前に布陣。戦闘が始まるや本多忠朝や小笠原秀政らを瞬く間に討ち取り、続いて浅野長重・秋田実季・榊原康勝・安藤直次・六郷政乗・仙石忠政・諏訪忠恒・松下重綱・酒井家次・本多忠純といった部隊を次々に撃破し、遂には徳川家康の本陣に突入するという大活躍を見せた。しかし、真田隊が壊滅して戦線が崩壊すると、四方から関東勢の攻撃を受けたため撤退を決意。退却においても勝永の指揮ぶりは水際立っており、反撃に転じた藤堂高虎隊を撃ち破ると、井伊直孝や細川忠興らの攻撃を防いで、城内へ撤収した。 8日、その最期は、守護していた豊臣秀頼の介錯を行った後、息子である毛利勝家、弟の山内勘解由吉近と共に蘆田矢倉で静かに腹切って自害したという。戦後、徳川家康は、土佐の山内忠義に城内に留め置かれていた3名を京へ護送するように命じ、10歳の太郎兵衛は斬首(名目は切腹)された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「毛利勝永」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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