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毛利 斉広(もうり なりとう)は、長州藩の第12代藩主。第10代藩主・毛利斉熙の次男で、第11代藩主・毛利斉元の養嗣子。長州藩主としては在職期間が最短の藩主である。 == 経歴 == 萩城内において、斉熙と側室の池上氏(志津・花ノ井)との間に生まれる。幼名として保三郎、のちに初名の崇広(たかひろ)を名乗る。文政5年(1822年)6月、先代藩主・毛利斉元の養嗣子となる。文政13年3月(1830年)、実父・斉熙や養父・斉元と同様、将軍徳川家斉より偏諱を授与され斉広(なりとう)に改名、従四位下侍従に叙任し、修理大夫と称する。しかし、同年に正室の和姫(家斉の娘)が死去する。 天保7年(1836年)9月8日に斉元が死去したため、同年12月10日に跡を継ぐが、20日足らず後の12月29日に桜田藩邸において、23歳の若さで死去した。 3歳年下の異母弟の毛利信順がいたが、斉元が生前に自身の長男教明を斉広の跡継ぎに立て、斉広の娘都美子(当時数え5歳)と娶わせる意向を残しており、これが江戸加判役毛利房謙より公表されるに及び、老臣の衆議でこれに異議がなかったため、教明(のちの慶親、敬親)が家督を相続した。 文化人としては有能で、林述斎に師事して「与人論」や「世子告文」など多くの書物を残している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「毛利斉広」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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