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毛利 綱広(もうり つなひろ)は、長州藩の第2代藩主。初代藩主・毛利秀就の四男。母喜佐姫が徳川家康の孫なので、綱広は家康の外曾孫に当たる。 == 生涯 == 1651年(慶安4年)、父の死去で跡を継ぐ。1653年(承応2年)に叙任し、将軍徳川家綱(綱広の外又従兄弟にあたる)から偏諱を受けて綱広と名乗った。1654年(承応3年)には萩と周防国三田尻を結ぶ萩往還を造った。その際に、三田尻御茶屋を築造して、参勤交代の拠点とした。藩政では法令である「33か条の条目」を1660年(万治3年)に制定した。これは毛利元就以来の先例をまとめ上げたものと言われている。 このように藩政を確立したが、その反面で自尊心も人一倍強く、徳川将軍家家門筆頭の越前松平家から正室・千姫(高寿院)を迎えている(自身も母方で越前家の血を引き、千姫とは外従兄妹にあたる)にもかかわらず、元就の嫡孫・毛利輝元の嫡孫であるということから、徳川氏に仕えることを恥として、江戸に滞在しながら江戸城に登城しないことさえあったという。このため、改易を恐れた家臣の多くがこの綱広の行為に反発し、綱広に隠居を要求するようになる。綱広はやむを得ず、1682年(天和2年)に長男・吉就に家督を譲って隠居を余儀なくされた。 元禄2年(1689年)4月17日に死去した。享年51。墓所は山口県萩市椿の大照院。昭和3年(1928年)に従三位を追贈された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「毛利綱広」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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