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民主主義的中央集権制(みんしゅしゅぎてきちゅうおうしゅうけんせい)、または民主集中制(みんしゅしゅうちゅうせい、〔民主集中制 みんしゅしゅうちゅうせい Democratic Centralism 日本大百科全書〕)とは、レーニン主義の系譜を引く政党が採用する組織原則で、民主制と中央集権制を折衷・統一した制度。実際の内容は国や時期によって異なる。 == ロシアにおける民主集中制の成立と変質 == 「民主主義的中央集権制」の原則は、1906年4月に開かれたロシア社会民主労働党の統合大会で初めて党の組織原則として採択された。 これに先立つ1905年11月、メンシェヴィキの協議会が「党の組織について」という決議を採択した。「ロシア社会民主労働党は民主主義的中央集権制の原則にしたがって組織されなければならない」とした上で、その内容として、党の機関は選挙によって構成されること(選挙制)、更迭されうること(更迭制)、その活動を定期的および随時に報告しなければならないこと(報告義務制)などを挙げたものだった。1905年12月に開かれたボリシェヴィキの協議会で採択された決議「党の再組織について」もほぼ同じ内容の民主主義的中央集権制を「争いの余地なきもの」と認めた。統合大会はこれらの動きを受けて党規約を改正し、民主主義的中央集権制を採用した。 統合大会ではメンシェヴィキが多数派だったため、採択された決議もメンシェヴィキの主張に沿ったものが多かった。そのためボリシェヴィキは大会の決定を繰り返し批判した。メンシェヴィキが支配する党中央委員会は、その批判を規制するため、党の新聞雑誌や集会での批判は自由だが大衆的な政治集会で大会の決定に反する煽動や大会の決定に矛盾する行動の呼びかけを行ってはならない、という決議を採択した。レーニンは「批判の自由と行動の統一」〔『レーニン全集』第10巻、大月書店、1955年〕という論文でこの決議を批判し、批判の自由は党の集会でも大衆集会でも完全に認められるべきだが行動の統一を破る呼びかけは党の集会でも大衆集会でも認められるべきではない、という見解を示した。 十月革命後、内戦が激しくなると民主主義的中央集権制の原則は修正され、民主主義的要素が後退して軍事的規律が支配するようになっていった。 1920年に開かれたコミンテルン第二回大会は「プロレタリア革命における共産党の役割に関するテーゼ」を採択し、その中で「民主主義的中央集権制の基礎的原則は、党の上級団体が下級団体によって選挙され、党の上級団体の指令一切が絶対的に、かつ必然的に下級団体を拘束し、大会と大会との間の期間、一切の指導的な党の同志が一般にかつ無条件にその権威を認める、強い党の中心が存在すべきことである」と規定した。軍隊的な上意下達に基づいた党規律を民主主義的要素よりも優先し強調したこのような民主主義的中央集権制がコミンテルンを通じて各国の共産党に広がっていった。 さらに1921年の第10回党大会で採択された決議「党の統一について」は党内において分派を形成することを禁止した。それでも1920年代には党内にトロツキー派やブハーリン派などの反対派が存在したが、スターリン派によって一掃され、1930年代の大粛清において次々に処刑された。共産党は指導部に対する批判をいっさい許さない組織へと変わった。このスターリン時代の党組織原則を民主主義的中央集権主義と区別して一枚岩主義と呼ぶ見解もある〔渓内謙『現代社会主義を考える』、岩波書店<岩波新書>、1988年〕。 しかし共産党自身は自らの組織原則を民主主義的中央集権制と呼びつづけた。1934年に改正された党規約第18条も「党の組織構成の指導的原理は民主主義的中央集権制」と規定しており、その内容として以下の四つの項目が挙げられている。(1) 党の上から下までのすべての指導機関の選挙制 (2) 党組織にたいする党機関の定期的報告制 (3) 厳格な党規律、ならびに多数者への少数者の服従 (4) 下級機関および全党員にとっての上級機関の決定の無条件的な拘束性。 1977年に採択されたソ連憲法は国家の原則として民主主義的中央集権制を採用し、第3条で「ソビエト国家の組織と活動は、民主主義的中央集権制の原則、すなわち、下から上までのすべての国家権力機関は選挙によって構成され、これらの機関は人民に対して報告義務を負い、上級機関の決定は下級機関にとって拘束力をもつという原則、にしたがってうち立てられる」とした。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「民主集中制」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Democratic centralism 」があります。 スポンサード リンク
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