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民主正義党(みんしゅせいぎとう)は大韓民国の政党。1980年5月の5・17非常戒厳令拡大措置(5・17クーデター)を通じて政権を掌握した全斗煥をリーダーとする新軍部勢力の与党として結成された。全斗煥政権・盧泰愚政権前半期の与党。略称は「民正党」(みんせいとう)。なお1997年に結成されたハンナラ党を前身とするセヌリ党(朴槿恵政権与党)は、一定の範囲内で民正党の流れを受け継いでいる。 == 歴史 == 1980年11月25日、「民主正義党」の創党を公式宣言して創党作業に着手。12月2日に創党発起人総会を開き、同月9日に創党準備委員会を発足させた。1981年1月15日にソウル蚕室体育館で創党大会を開催し、初代総裁に全斗煥大統領を選出すると同時に第12代大統領選挙における民正党候補に推戴した。民族・民主・正義・福祉・統一の5大理念を綱領として掲げた。 1981年2月25日、大統領選挙人団の間接投票で行われた第12代大統領選挙では、他の3人の候補を抑えて全斗煥が90.2%の得票率で大統領に当選、翌月の3月25日の第11代総選挙では、地域区の第1党に全国区の3分の2を配分する選挙制度によって過半数を制した。 党名は、「社会正義を具現する」との全斗煥の考えを反映している。この「社会正義」の実践として、全斗煥の政権掌握直後には、多数のやくざ者やホームレス、非行少年が強制収容所(三清教育隊)に送られた。 政策は抑圧的であった。夜間外出禁止令の解除や、中学校・高等学校の制服廃止などで、自由化ポーズを示した。しかし、夜9時からのKBSニュースでは必ず全斗煥の動静をトップで報道(テン全ニュース)させ、全斗煥に似たコメディアンのテレビ出演を禁止し、反体制政治家・学生運動家は容赦なく厳罰に処した。他党にも政権担当の道は開いていたものの、選挙制度が極めて与党に有利であり、選挙結果は必ずしも民意を反映していなかった。学生運動家からは「殺人政党」と非難された。 1980年代を通じた韓国の政権政党でありながらも、盧泰愚政権への移行する際に出された1987年の民主化宣言の後は穏健化した。社会民主主義政党の積極的な育成にも言及したことがある。 16年ぶりの国民による直接選挙で行われた1987年12月の第13代大統領選挙で盧泰愚が、金泳三(統一民主党)と金大中(平和民主党)の間隙を縫って、4割足らずの得票率で当選したが、翌1988年4月26日の第13代総選挙では、民正党が過半数を大きく割り込み、野党が国会の多数を占めることになった(与小野大)。これに危機感を抱いた民正党は1990年1月22日、野党である民主党・新民主共和党と合同を宣言。同年2月15日に民主自由党(民自党)となった。金泳三へと政権を移譲するための合同とみなされたが、実際には合同後に旧党派間で激しい権力闘争が繰り広げられた。しかし、結果的には金泳三が民自党を代表する大統領候補となり、金大中と対決した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「民主正義党」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Democratic Justice Party 」があります。 スポンサード リンク
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