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水の江 瀧子(みずのえ たきこ、1915年2月20日 - 2009年11月16日)は、日本の女優、映画プロデューサー、タレント。 1928年に東京松竹楽劇部(後の松竹少女歌劇部、松竹歌劇団)に第1期生として入団。日本の女性歌劇史上初めて男性様に断髪した男役で「男装の麗人」の異名を取り、「ターキー」の愛称と共に1930~40年代にかけて国民的人気を博した。1942年の松竹退団後は劇団主宰、映画女優などを経て1955年に日活とプロデューサー契約。日本初の女性映画プロデューサーとなり、石原裕次郎を筆頭に、浅丘ルリ子、長門裕之、岡田真澄、和泉雅子、赤木圭一郎ら数々の俳優や、中平康、蔵原惟繕といった監督を発掘・育成し、『太陽の季節』、『狂った果実』など70本以上の映画を企画〔日活ではプロデューサーについて「制作」ではなく「企画」という肩書を使用した。〕、日活の黄金時代を支えた。また、『NHK紅白歌合戦』の司会を2度務めたほか、『ジェスチャー』、『独占!女の60分』といった番組に携わった。 50年以上に渡り芸能活動を続けたが、1984年に甥の三浦和義が妻の不審死に関わったのではないかとしてマスメディアを賑わせた「ロス疑惑」のスキャンダルに巻き込まれ、芸能界を引退。その後は隠居の傍らジュエリー作家として活動したほか、1993年に自身の生前葬を大々的に催し話題をとった。 出生名は三浦ウメ子であったが、ロス疑惑の後、法的に水の江瀧子を本名とした。以下の経歴部分では、松竹入団までをウメ子、入団後を瀧子と記述する。「水ノ江」や「滝子」との表記も多くあるが、引用部分を除き「水の江瀧子」で統一して記述する。 == 経歴 == === 生い立ち - 初舞台 === 1915年、北海道小樽区(後の小樽市)花園町に生まれる。8人きょうだいの7番目だったが4人が子供の頃に死んだため、4人きょうだいの末っ子として育つ〔 水の江(1988)pp.14-15〕。出生名は三浦ウメ子〔水の江(1988)p.212〕。2歳の時に一家で東京府千駄ヶ谷(後の東京都渋谷区千駄ヶ谷)、次いで目黒村(後の目黒区)に移り、以後同地で育った〔水の江(1988)pp.15-16〕。幼少の頃は当時まだ田舎だった目黒にあってベーゴマ遊びやチャンバラごっこ、洞窟探検などに興じる〔水の江(1988)pp.19-20〕活発な少女であった。 1928年、東京松竹楽劇部の新設に伴う第1期生募集の新聞広告を見た次姉が、ウメ子の知らぬ間に入部試験に応募。ウメ子は「浅草に連れていってあげる」と姉に試験会場まで連れ出され、何も聞かされず言われるがままに試験に臨み、合格した〔水の江(1988)pp.24-26〕。ウメ子は何の感慨も湧かず、「学校の勉強があまりできなかったから、それよりはこっちの賑やかなほうへ行くほうがいいだろうと思ったぐらい」であったという〔。試験でのウメ子の様子については様々な伝聞があるが、『タアキイ -水の江瀧子伝-』の著者中山千夏が「おそらく正確なところを語っている」とする試験委員・大森正男の次のような回想がある〔中山(1993)p.62〕。 入部後は高田雅夫・永井三郎(洋舞)、花柳輔蔵(日舞)、天野喜久代(声楽)、篠原正雄(音楽)に師事しながら10カ月あまりの基礎訓練を受けた〔松竹歌劇団(1978)p.145〕〔水の江(1988)pp.26-27〕。芸名は最初「東路 道代(あずまじ みちよ)」であったが、「水の江たき子」の名を授けられた生徒が不満を訴えたことから芸名の交換が行われ、「水の江たき子」がウメ子の名となった〔水の江(1988)p.35〕。この名前は『万葉集』所収の柿本人麻呂の一首「あしかものさわぐ入り江の水の江の 世に住みがたき我が身なりけり」に由来する〔。後に初めて役が付いた際に、ポスターのレイアウト上の都合から「水の江瀧子」となり〔、以後定着した。初舞台は1928年12月、昭和天皇の即位礼に合わせ、先に発足していた大阪松竹楽劇部が浅草松竹座で上演した『御大典奉祝レビュー』の中で、奉祝行列の山車の紅白綱を曳く子供役であった〔水の江(1988)p.31〕。なお、瀧子の初めての舞台化粧を施したのは当時大阪松竹に所属し、後に「ブギの女王」として国民的歌手となる笠置シヅ子(当時の芸名は「三笠静子」)で、笠置とは後々まで交流が続いた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「水の江瀧子」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Takiko Mizunoe 」があります。 スポンサード リンク
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