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水原 親清(すいばら ちかきよ)は、安土桃山時代から江戸時代前期の武将。 == 生涯 == 天正11年(1583年)蘆名氏家臣・栗村盛胤の子として生まれる。 天正12年(1584年)6月、父・盛胤が松本行輔と共に蘆名盛隆に謀叛を起こして討たれたため、祖父の長沼城主・新国貞通に養育された。天正18年(1590年)に貞通が豊臣秀吉によって改易された後、慶長3年(1598年)の上杉景勝の会津入封の頃までには、上杉家臣・水原親憲に出仕していたものと考えられる。上杉家臣の頃には、新国庄蔵と名乗っており、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは親憲の下で慶長出羽合戦に従軍し、長谷堂城からの撤退戦で水原隊の一員として活躍し、戦後に親憲から感状を与えられている。 元和5年(1619年)、親憲の後を継いでいた憲胤を誘って共に米沢藩より出奔。憲胤は福井藩に仕え、庄蔵は川越藩主酒井忠利の子・忠勝(のちに若狭国小浜藩主)に仕えた。水原所左衛門親清と称したのはこれより以降のようである〔『新庄藩系図書』巻之七に載せる「水原家系図」では、親清は親憲の弟で、のちに養子となったとしており、米沢藩出奔後はそのように自称していたものと考えられる(編:大友義助「新庄藩系図書2」『郷土資料叢書』第16輯 山形県新庄図書館 1984)。〕。 この時、忠勝の求めに応じて自らの従軍経験を書き残した。この筆記録は、延宝8年(1680年)に近江の国枝清軒によって軍記物『東国太平記』として仕立てられ、また宮川尚古の『関ヶ原軍記大成』にも大きな影響を与えた。しかし、親清が酒井家に奉公していたのはわずか数年間のことで、元和年間の内には忠勝の下を離れ、出羽国新庄藩主・戸沢政盛に仕官して知行300石を与えられた。 寛永8年(1631年)10月1日死去。享年49。子孫は新庄藩士として続いた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「水原親清」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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