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本線(ほんせん)は、滋賀県米原市の米原駅から滋賀県甲賀市の貴生川駅までを結ぶ、近江鉄道の鉄道路線である。「近江線」「近江本線」などと呼ばれることがある。また、本線を始め近江鉄道各線は地元住民から「近江ガチャコン」「ガチャコン」と呼ばれることがある。 東海道本線や草津線のルートから外れた近江盆地の穀倉地帯を縦断する鉄道として、北陸から関西鉄道(現在の草津線)へ伊勢参詣への短絡路も兼ねて建設された。五箇荘以北は旧中山道、五箇荘から日野までは旧御代参街道(伊勢道)におおむね沿っている。 2013年3月16日から米原駅 - 高宮駅 - 多賀線多賀大社前駅間に「彦根・多賀大社線」(ラインカラー:)、高宮駅 - 八日市駅間に「湖東近江路線」(ラインカラー:)、八日市駅 - 貴生川駅間に「水口・蒲生野線」(ラインカラー:)の愛称が付けられている〔。 == 歴史 == === 建設 === 1893年(明治26年)11月に、旧彦根藩士と近江商人計44人が、逓信大臣に対して創立願いを提出したことに始まる〔。1896年(明治29年)6月16日に官設鉄道(現在のJR東海道本線)彦根駅と関西鉄道(現在のJR草津線)の深川駅(現在の甲南駅)を結ぶ27マイル45チェーン(約44.3キロメートル)が免許された〔。滋賀県内で先に開通していた東海道本線や関西鉄道(草津線)の経路から離れた地域の有力者が鉄道建設を計画したことが発端となっており〔、伊勢神宮参拝の熱心な慣習があった滋賀県・岐阜県・北陸地方方面から伊勢神宮へ向かう際に短絡経路を提供することと、湖東平野に産する良質な米などの農産品輸送を図ることが目的であった〔。 工事監督を白石直治に依頼し、1896年(明治29年)9月13日に着工し12月26日に高宮川で起工式を挙げた〔。全線を大きく3区間に分け、さらに9工区に分割して工事を進めたが、途中で建設費に窮し、まずは彦根 -八日市間の完成を優先することにして八日市より先の工事を中止した〔。1898年(明治31年)6月11日に彦根 - 愛知川間7マイル42チェーン(約12.1キロメートル)が、続いて7月24日に愛知川 - 八日市間4マイル48チェーン(約7.4キロメートル)が開通した〔。この年、6月には官設鉄道との連帯運輸を開始し、12月には彦根駅の共同使用契約を結んだ〔。しかし予定路線の一部のみの開業では経営は苦しく、早期の全線開通が待望された〔。 そうしたこともあり、倍額に増資して1899年(明治32年)9月12日に残りの区間を着工した〔。当初終点に予定していた深川駅では関西鉄道線と並行する線路を敷設することになることから、貴生川に関西鉄道と共同で新しい駅を設置してそこを終点にする方針となり、1900年(明治33年)9月10日に、終点を深川駅から貴生川駅に変更する認可を得た〔〔〔。10月1日に八日市 - 日野間7マイル60チェーン(約12.5キロメートル)が開通し、続いて12月28日に日野 - 貴生川間6マイル11チェーン(約9.9キロメートル)が開通して当初計画区間が全通した〔。12月28日と年末に開通したのは、1901年正月の初詣輸送に間に合わせる意図があったとされている〔。当初は蒸気機関車による運転であった〔。 1901年(明治34年)1月9日に彦根駅構内で全通式を盛大に挙行したが、経営の内実は非常に苦しく、全通式当日午後に開催された大株主会では財政整理案が討議されるほどで、1904年(明治37年)から1905年(明治38年)にかけては資本金を2回に分けて200万円から110万円にする減資を断行した〔。1904年からは、関西鉄道大合同と呼ばれる関西地方一円の鉄道会社の合併を進める動きがあったが、近江鉄道の無配当が続く経営状況から合併相手となる関西鉄道から受け入れられず、合併は成立しなかった〔。1906年(明治39年)からは鉄道国有法に基づく主要私鉄の国有化が進められたが、これにより貴生川で路線を接する関西鉄道も国有化され、国鉄草津線となった。近江鉄道は国鉄に挟まれた区間を営業することになり、営業上の困難を訴えまた鉄道国有法で私鉄の経営が認められた「一地方の交通を目的とする鉄道」には近江鉄道は当たらないとして国有化を請願したものの、これは受け入れられず私鉄として存続した〔〔。 近江鉄道は列車本数が少ないために駅間を歩く旅客も多く、列車頻度を増す必要性を感じていたが、蒸気機関車のままでは経費の面で列車本数の増加は難しかった。そこでこの頃から普及し始めた蒸気動車の採用を考え、ハンガリーのガンツ製蒸気動車2両を導入して1908年(明治41年)12月31日から運転を開始した〔。全線を走る列車は蒸気機関車牽引とし、その間に蒸気動車により彦根 - 八日市間などの区間列車を運転し、また蒸気動車専用の駅として尼子駅を開設するなどした。統計上、1922年(大正11年)度まで走行実績が記録されており、複雑精緻な作りであるガンツ式蒸気動車の日本での運用期間として最長と見られている〔。運転の準備に時間がかかることや精密な機構の問題もあって、大正末期に客車に改造された〔〔。1910年(明治43年)度の時点で機関車4両、客車30両(蒸気動車2両を含む)、貨車50両を有していた〔。1911年(明治44年)2月16日付で、依拠する法律を軽便鉄道法に変更した〔。 社業が隆盛に向かうきっかけとなったのは、本線の高宮で分岐して多賀(現在の多賀大社前駅)へ向かう2.5キロメートルの支線、多賀線が1914年(大正3年)3月8日に開通したことで、多賀大社へ参拝する客を広く誘致することで近江鉄道も潤うようになった〔。国鉄とタイアップして多賀までの臨時直通列車を盛んに運転し、それまで無配当続きだったのが大正後期には12パーセントの配当を実施するまでになった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「近江鉄道本線」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Ohmi Railway Main Line 」があります。 スポンサード リンク
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