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水戸徳川家(みととくがわけ)は、常陸国水戸にあった徳川氏の一支系で、徳川御三家のひとつ。単に水戸家ともいう。徳川家康の十一男である徳川頼房を家祖とする。 == 概要 == 徳川家康の十一男徳川頼房を家祖とし、江戸時代を通じて水戸藩(現在の茨城県中部・北部)を治めた。格式は御三家のひとつとして大廊下に詰め、屋形号を許された。領国の石高は実収が28万石程度であったが、御三家の格式をもって高直しをした結果、公称は35万石であった。これは水戸藩の財政を厳しくする一因でもあった。また、徳川宗家が「征夷大将軍」を表すために三葉を表にした表葵御紋であるのに対し、水戸家の葵御紋は三葉が裏になった裏葵御紋が正紋であるので、正式には御三家ではなかったとする説がある。さらに、紀州藩の史料である『南紀徳川史』では頼房が徳川姓を許されたのは1636年(寛永13年)7月とし、それまでの33年間は「名字定まらず」としており、ある時期〔1.徳川姓を賜姓される1636年(寛永13年)頃 2.生母養珠院の死去する1653年(承応2年)頃 3.徳川将軍家の直系が断絶する徳川家綱の死去する1680年(延宝8年)頃 など〕まで紀州家の祖である同母兄頼宣の分家とみなされていたという説もある。また、水戸家は家格の点でも徳川忠長や甲府徳川家の存在により何度も後退しており、御三家の第三位の地位が確立したのは徳川家宣が将軍となって甲府家が解消したのちのことであった。 大納言を極官とする尾張家・紀州家から見ると、水戸家はその一段下の官位である権中納言にすぎず、石高が低かったことなどから知行的に負担を与えられた。尾張家・紀州家より「格下の家柄」とするのが一般の認識であるが、水戸家の領地は江戸に近く、また常陸国は延喜式における大国かつ親王任国であること、支家の中に高松藩12万石という徳川御連枝の中では破格の禄高の家系(高松松平家)があり、他にも3つの支藩が存在するなどの事情を考慮すると、総合的には上位とされる2家と同等であるとの説も存在する。 水戸家当主は参勤交代の対象外であり、江戸定府とされて基本的には国許に帰国することはまれであった(藩主側近も江戸詰めであったため、国許の家臣と江戸詰め家臣では立場も環境も異なっていた)。「御三家であっても、水戸家からは将軍は出さない」定めであったとする俗説も伝えられている。なお、9代藩主斉昭の子で一橋徳川家に養子に入った慶喜が15代将軍となることによって、江戸幕府最後の将軍を出すこととなった。しかし、これは血統的な視点であり、加えて慶喜自身は水戸家の当主になっていないことから、御三卿の一橋家から将軍を出したと見た方が無難である。 水戸家は親藩の御三家であると同時に、水戸学を奉じる勤皇家として知られており、「もし徳川宗家と朝廷との間に戦が起きたならば躊躇うことなく帝を奉ぜよ」との家訓があったとされる〔「烈公(斉昭)尊王の志厚く、毎年正月元旦には、登城に先立ち庭上に下り立ちて遥かに京都の方を拝し給いしは、今なお知る人多かるべし。予(慶喜)が二十歳ばかりの時なりけん。烈公一日予を招きて「おおやけに言い出すべきことにはあらねども、御身ももはや二十歳なれば心得のために内々申し聞かするなり。我等は三家・三卿の一として、幕府を輔翼すべきは今さらいうにも及ばざることながら、もし一朝事起こりて、朝廷と幕府と弓矢に及ばるるがごときことあらんか、我等はたとえ幕府に反くとも、朝廷に向いて弓引くことあるべからず。これ義公(光圀)以来の家訓なり。ゆめゆめ忘るることなかれ」と宣えり。」『昔夢会筆記』烈公(斉昭)の御教訓の事〕。 歴代当主は比較的長命で、無子の者も少なく、江戸後期には他家へ多くの養子を出している。例えば尾張藩主徳川慶勝と会津藩主松平容保の兄弟は、水戸家から尾張家連枝の高須松平家に養子に入った松平義和の血筋である。 藩主として特に有名なのは、第2代藩主光圀(義公)と、第9代藩主斉昭(烈公)である。光圀は修史局彰考館の創設、及び紀伝体の史書『大日本史』編纂において、斉昭は藩校・弘道館及び偕楽園造成者として、あるいは最後の将軍の父として、それぞれ当時から著名であった。 明治維新後は華族に列して侯爵を授けられ、さらに公爵にのぼった。13代当主圀順は、財団法人水府明徳会を設立して伝来の大名道具や古文書を寄贈し、散逸を防ぐ措置を取った。1977年、水戸市の光圀の茶室跡に彰考館徳川博物館を開き、その保存・展示に努めている。 水戸家の支系(御連枝)は、讃岐国高松藩の高松松平家、陸奥国守山藩の守山松平家、常陸国府中藩の府中松平家、常陸国宍戸藩の宍戸松平家の4家を数える。水戸徳川本家も含めて相互に養子のやりとりはあったものの(ただし尾張や紀州と異なり、支藩の藩主を経て本家を継いだ水戸藩主はいない)、いずれもそれ以外の他家から養子を迎えることはなく〔ただし明治維新の直後には、一度他家へ養子に出た徳川昭武や松平喜徳が水戸本家や支家を継ぐ変則的な状況になっている。〕、現代まで頼房の血統で続いている。また江戸時代中期以降、宍戸家を除く3家やそのさらに支家から、多くの養子を他家へ出している。血統上、上述の高須松平家や会津松平家のほか、紀州家連枝の伊予西条松平家、御家門の越智松平家、さらに幕末以降現代までに徳川宗家・徳川慶喜家・一橋家・清水家と、大半の徳川家や御連枝の家系が頼房の男系子孫となっている。旧華族の徳川姓諸家のうちで創始から一度も頼房の男系子孫の相続がなかったのは、紀州家と田安家の2家のみである。 なお、支藩ではないが3000石の家老格の支族として、頼房の八男・松平頼泰の家系が幕末まで続いている。松平頼譲のときに長倉陣屋に移ったことから、長倉松平家とも呼ばれる。他の支族(支藩以外)は幕末までに途絶している。その他、水戸本家や支家から附家老中山家以下、陪臣の家系(山野辺家、雑賀鈴木家など)を継いだ者が、頼房の子の代以来、数多く出ている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「水戸徳川家」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Mito branch 」があります。 スポンサード リンク
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