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水晶の夜(すいしょうのよる、、クリスタル・ナハト)とは、1938年11月9日夜から10日未明にかけてドイツの各地で発生した反ユダヤ主義暴動である。ユダヤ人の居住する住宅地域、シナゴーグなどが次々と襲撃、放火された。 暴動の主力となったのは突撃隊(SA)のメンバーであり、ヒトラーや親衛隊(SS)は傍観者として振る舞った。ナチス政権による「官製暴動」の疑惑も指摘されている。 事件当時は「帝国水晶の夜(Reichskristallnacht)」と呼ばれていた〔オウヴァリー、p.39〕。この事件によりドイツにおけるユダヤ人の立場は大幅に悪化し、後に起こるホロコーストへの転換点の一つとなった。 因みに、水晶の夜という名前の由来は、破壊されたガラスが月明かりに照らされて水晶のようにきらめいていたところにヨーゼフ・ゲッベルスが名付けた事にあるとされている。 == 事件の原因 == === ナチスによるポーランド系ユダヤ人追放 === 1933年1月30日に、反ユダヤ主義を掲げるものの、多くのドイツ国民からの支持を受けてドイツの第一党となったナチス党の党首のアドルフ・ヒトラーが、ドイツ国大統領パウル・フォン・ヒンデンブルクからドイツ国首相に任命された。 ヒトラーの首相就任後、ドイツではユダヤ系ドイツ人が激しい迫害にさらされることとなった。しかしドイツ在住のユダヤ系ポーランド人は比較的迫害から免れていた。たとえ夜中の3時にゲシュタポがやってきても、彼らはポーランドの旅券を見せることで在住外国人としての権利主張ができた。いかにドイツ政府といえどポーランドと国交を結ぶ限りは彼らに正当な権利を認めねばならなかった。また旅券を有する彼らはいつでもポーランドへ帰ることもできた。 ところがポーランド政府は1938年10月6日、全てのポーランド旅券につき検査済みの認印が必要であるとする新しい旅券法を布告した〔デッシャー、p.67〕。これによりドイツ在住のポーランド系ユダヤ人の旅券と国籍が無効とされた〔グレーバー、p.138〕。ドイツに勝るとも劣らず反ユダヤ主義的だったポーランドは、ドイツの反ユダヤ主義政策が激化していく中、ドイツ在住のポーランド系ユダヤ人がポーランドへ帰って来ることを嫌がっていたのだった〔デッシャー、p.68〕。 逆にポーランド系ユダヤ人をポーランドへ送り返したがっていたドイツ政府はこのポーランド政府の決定に激怒した。ドイツ政府はポーランドの旅券法が発効される1938年10月30日よりも前にポーランド系ユダヤ人を強制的にポーランドへ送り返してしまおうと企図した〔デッシャー、p.69〕。1938年10月28日に保安警察(Sipo)長官ラインハルト・ハイドリヒ親衛隊中将の指揮の下にドイツ警察が1万7000人のポーランド系ユダヤ人を狩りたて、彼らをトラックや列車に乗せてポーランドとの国境地帯に移送した〔グレーバー、p.138〕〔ラカー、p.285〕。これに対抗してポーランド国境警察は国境を封鎖してユダヤ人の受け入れを拒否した。まだ旅券法が正式に発効していないにも関わらずポーランド政府は未だ有効な旅券を持つポーランド系ユダヤ人の受け入れを無法に拒否したのだった〔。 ドイツ政府からもポーランド政府からも受け入れを拒否されたユダヤ人たちは国境の無人地帯で家も食料も無い状態で放浪することとなり、彼らは窮乏した生活を余儀なくされ、餓死者も大勢出た〔〔バトラー、p.88〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「水晶の夜」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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