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水谷 文二郎(みずたに ぶんじろう〔シリーズ・日本の撮影監督 2 、東京国立近代美術館フィルムセンター、2010年3月1日閲覧。〕、1896年5月9日〔Bunjiro Mizutani, Internet Movie Database, 2010年3月1日閲覧。〕 - 没年不明〔)は、日本の撮影技師、編集技師である。初期名水谷 文次郎(読み同)、のちに水谷 至宏(みずたに のりひろ〔)と改名した〔。 == 人物・来歴 == 1896年(明治29年)5月9日、東京府東京市(現在の東京都)に生まれる〔。 1915年(大正4年)、日活向島撮影所に入社する〔。 1920年(大正9年)、松竹キネマの設立に参加、同年、松竹蒲田撮影所製作、小山内薫総指揮、村田実監督による『光に立つ女』を手がけ〔水谷文次郎・水谷文二郎、日本映画データベース、2010年3月1日閲覧。〕、翌1921年(大正10年)、松竹キネマ研究所製作、小山内薫指導、村田実監督による松竹キネマの記念碑的作品『路上の霊魂』を手がける〔〔。同撮影所がハリウッドから招聘した撮影技師・映画監督のヘンリー小谷に学び、日本映画の技術的近代化に寄与した〔。 1930年(昭和5年)11月15日公開、牛原虚彦監督の『若者よなぜ泣くか』以降、「水谷至宏」と改名している〔〔若者よなぜ泣くか 、日本映画データベース、2010年3月1日閲覧。〕〔水谷至宏、日本映画データベース、2010年3月1日閲覧。〕。五所平之助監督による日本初の本格的トーキー『マダムと女房』に技術的研究段階から関わり〔、1931年(昭和6年)、撮影を手がけ、同年8月1日の公開となった〔。 外見や身振りがダンディで、同撮影所の女優に人気のカメラマンであった〔。1936年(昭和11年)に撮影所の移転により、松竹大船撮影所に異動になり、同年製作・公開の島津保次郎監督の『家族会議』、同じく『男性対女性』を手がけたのちの消息が不明である〔〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「水谷文二郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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