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水野 仙子(みずの せんこ、1888年(明治21年)12月3日 - 1919年(大正8年)5月31日)は、日本の小説家。本名、服部テイ。筆名、服部水仙、服部貞子、服部水仙子、水野仙など。 == 生涯 == 服部直太郎とセイとの二男三女の末子として、福島県岩瀬郡須賀川町(現・須賀川市)に生まれた。燃料などを商う旧家だった。 1903年(明治36年)(15歳)、須賀川尋常高等小学校(現・須賀川市立第一小学校)を最優秀の成績で卒業し、須賀川裁縫専修学校に入った頃から、『少女界』誌に投稿した。長兄の歌人躬治(もとはる)が選者でいた。卒業後裁縫女塾へ通い、1905年から、河井酔茗の『女子文壇』誌に投稿し入選した。投稿仲間の愛称は『お貞さん』だった。1908年からは『女子文壇』に、全投書の掲載を約束された。 1909年(明治42年)(21歳)、『文章世界』誌に発表した『徒労』が編集主任の田山花袋に激賞されて上京し、田山家に寄寓して内弟子となった。そして、翌年の『お波』(中央公論2月号)、『娘』(同11月号)あたりで、投稿少女から一人立ちの作家となった。 1911年、6年越しの文学仲間、川波道三と結婚した。花袋とは疎隔した。この年創刊された『青鞜』の社員となって作を載せたが、青鞜社の『新しい女たち』とは馴染まなかった〔『冬を迎へやうとして』、新潮、1913年12月号(青空文庫に収録)〕。 1915年(大正4年)9月、前田晁に勧められて読売新聞記者となり、身上相談を受け持ったが、半年後肋膜炎を病んで退社。肝臓病、腹膜炎を併発し、療養したが、1918年(30歳)再発した。病床で有島武郎の作品の批評を書いて、武郎との文通が始まった。 その9月から、次姉ケサが勤める草津温泉の聖バルナバ医院へ入院し、翌1919年(大正8年)5月、亡くなり、雑司ヶ谷墓地に葬られた。 1920年9月、夫道三編集の『水野仙子集』が、叢文閣から刊行された。題字尾上柴舟、序文田山花袋、跋文有島武郎、装丁岸田劉生である。仙子の作品の約三分の一、22篇を納めている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「水野仙子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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