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水野修孝 : ミニ英和和英辞書
水野修孝[みずの しゅうこう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [の]
 【名詞】 1. field 
: [こう]
 【名詞】 1. filial piety 

水野修孝 : ウィキペディア日本語版
水野修孝[みずの しゅうこう]

水野 修孝(みずの しゅうこう、1934年2月24日 - )は、徳島県生まれの作曲家
== 経歴と作品概論 ==
1934年、徳島に生まれる。父親は中学の教諭を経て、戦後は千葉大学で化学を教えた人物。2歳の時に千葉県へ越し、以後現在に至るまで千葉に在住。
戦争末期に疎開を行った際、2回に分けて荷物を運んだが、2回目の荷物を運び出す前に空襲の被害を受ける。しかし、1回目に運んだ荷物の中にピアノが含まれていたことが、その後の彼の人生を決定づけた。
中学時代、学問、芸術、スポーツなどあらゆることに熱中するが、それらの中で音楽に最も惹かれるようになる。千葉大学文学部に入学後、法経学部法律政治科に転科。学内のオーケストラ(千葉大学管弦楽団)でヴィオラを弾くが、やがて才能が周囲に認められ、大学3年より指揮をするようになる(以後、1995年まで指揮を続けた)。またその頃、東京交響楽団の定期演奏会で聴いた、ヘンツェの交響曲第2番に大きな感銘を受け、作曲家を志す。大学4年の時、音楽を志す決意を完全に固め、半年で受験準備をして東京藝術大学楽理科に入学した。柴田南雄長谷川良夫小泉文夫に師事し、1961年に卒業した。特に柴田と小泉の2人からは多大な影響を受けた。
作曲家としての正式デビューは、1961年の「金管群のための3つの次元」。初期は、譜面の中に演奏者が自主的に演奏部分や演奏法を選択できる部分を盛り込み、演奏者の自発性を引き出すことを試みる。この頃の代表作としては、「声のオートノミー」(1964年)、「オーケストラ1966」(1966年/1973年改訂)などがある。当時の作品のサウンドは、師の柴田南雄に逆に影響を与えたとされる。
また、藝大在学中に小杉武久と出会い、学内でヴァイオリンとチェロで即興演奏の試みを始める。やがてそのメンバーに塩見允枝子刀根康尚戸島美喜夫柘植元一武田明倫が加わり、卒業後に「グループ音楽」という音楽集団を結成する。コンサートホールや戸外などあらゆる場所で、ジョン・ケージばりの集団音楽パフォーマンスを繰り広げた。その当時の藝大にはオノ・ヨーコも出入りしており、ステージパフォーマンスでのコラボレーションの経験がある。
やがて1960年代後半、アメリカより渡辺貞夫が帰国し、ジャズ理論講座を開催することになると、彼はこれを皆出席で受講し、ジャズ理論を完全にマスターする。そしてジャズ作品を次々に発表し始め、1973年に発表されたビッグバンドによる「ジャズ・オーケストラ'73」や、1975年に発表された「ジャズ・オーケストラ'75」は、日野皓正渡辺香津美中村誠一村上秀一らジャズ界のトッププレーヤーたちの手により演奏され、迫力あるドライブ感と大音響で聴衆を圧倒した。特に「'73」は、現代音楽の手法を採り入れた、当時としては非常に破天荒な作風であり、ジャズ、現代音楽の両分野で多大な反響を呼んだ。
1974年、アメリカロックフェラー財団から、武満徹一柳慧高橋悠治らとともに招かれ、1年間アメリカへ留学する。現地のミュージシャンと交流し、「純血文化はやがて淘汰され、これからの世界を席捲していくのは混血文化である」との確信を得るに至る。
その確信は、クラシック、現代音楽、ジャズなど様々なジャンルの技法を一つの作品の中に混在させ、統合を図る「ポスト・モダン」的作風へと結びつき、帰国後の1970年代後半から次々と発表されたオーケストラ作品、オペラ作品に色濃くその特徴が反映され、現在にまで至る。またこの留学以降、自らが日本人であることを一層強く意識するようになり、お囃子和太鼓などの、日本の伝統音楽の素材や楽器が高い頻度で作品に登場するようになる。
「ポスト・モダン」的作風による最も巨大な成果は、1961年より構想が開始され、26年後の1987年に完成した、演奏時間全3時間からなる「交響的変容」である。全4部で構成されており、彼がそれまでの様々な作品で試みたクラシック、現代音楽、ジャズ、ロックなどの技法が、まさしく縦横無尽に駆使されている。第1部から第3部までは通常のオーケストラのコンサートで初演、再演がなされたが、第4部「合唱とオーケストラの変容」は、それのみで演奏時間2時間、演奏者数700人を要する大作であったため、水野も作品を完成させたものの、上演する機会はないものと諦めていたという。
しかし、第4部を完成させた頃はバブル経済の最盛期であった。1989年、地元千葉の幕張メッセの杮落としで「第3部」が上演され、居合わせた聴衆に好評を呼んだことがきっかけとなり、第4部上演の機運が関係者の間で盛り上がった。地元自治体のバックアップの上に、複数の大手企業より多額の協賛金が寄せられることとなり、ついに1992年9月20日、幕張メッセで全4部の一挙上演が実現の運びとなった(演奏は岩城宏之指揮東京交響楽団東京混声合唱団栗友会合唱団等)。
「交響的変容」の完成後の作品には、叙情性が増し、歌うような旋律が頻繁に出現するようになる。交響詩『夏』(1989年)、交響曲第2番『佐倉』(1991年)、オペラ「ミナモ」(1991年)などにその特徴が顕著に現れている。また、1990年代よりミュージカルの創作を開始し、作曲者が在住する八千代市の子供たちのために、作詞家岡本おさみと組んで書いた「泣きたくなったら笑うんだ」(1993年)、指揮者金井誠が主宰する「ミュージカルシアターヒラソル」のための、空矢庵(金井のペンネーム)の台本による「イノセント・ムーン」(1999年)などが誕生する。ミュージカルから生まれた親しみやすいメロディーは、交響曲第4番(2003年)や、千葉室内合奏団のために書いた弦楽アンサンブルのための作品など、「純音楽系」の作品にも反映されている。
教育者としては、1960年代後半から1999年まで千葉大学教育学部で教鞭を執りながら、民俗音楽、流行歌を研究した。東京藝術大学講師も務めている。現在は千葉大学名誉教授である。千葉大学での門下生の有名人としては、歌手、リポーターを経て、民主党衆議院議員(千葉12区)を務めた青木愛がいる(彼女が歌手デビューを果たしたのは、水野が歌唱力を認めたことがきっかけである)。千葉大学退官後は、静岡文化芸術大学教授、武蔵野美術大学講師を務めた。
また、1955年から1995年までの41年にわたり千葉大学管弦楽団を指揮して、ベートーヴェンブラームスマーラーなどを演奏した。1968年に演奏したベートーヴェンの「交響曲第9番」は、この曲の千葉県初演であった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「水野修孝」の詳細全文を読む




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